産業と経済の変遷

第一章 農   業

 湧別原野での農業

 文化12年ごろ藤野喜兵衛が場所請負人として宗谷から斜里の浜にかけて広く漁業を経営し、湧別浜にも漁場を設けたといわれている。漁場には番屋を建て多くのアイヌを使って漁業を経営したが、当時は和人の居住するものはなかった。番屋には雪解けに来て秋に帰る習慣の生活を続けてきたが、やがてその番屋に番人を常駐させ越年するようになってから、番屋を開放して通行屋を設け、浜辺を往来する旅人の休泊や物資の輸送などを行って交通の便を図ってきた。その当時番屋付近の原野を拓きわずかばかりの自家用野菜を栽培して需要にあててきた。しかし、その栽培方法は極めて幼稚で原始的なものであった。
 
明治15年春、網走郡役所の役人であった半沢真吉が漁師やアイヌたちに農耕を指導、奨励するために湧別浜市街地に居住して5〜6畝の土地を開墾し、大根や馬鈴薯などの野菜の栽培方法を指導した。これが湧別原野に和人が定住して農耕のため土地を拓いた最初であるといわれている。
 同年ころ高知県土佐出身の
徳広正輝が、湧別原野の肥沃なのを知って、その年の10月、この原野に移住してきた。大阪の人和田麟吉も網走から移住してきた。
 
明治15年10月2日半沢真吉が紋別戸長に任命され紋別に移ったので、徳広・和田の両人は半沢の土地を購入し、土地を開墾し、馬鈴薯などの栽培を重ねた。
 
明治18年徳広は馬鈴薯反当り100俵を超える収穫の成績を上げるなどその実績が高く評価された。
 
明治20年10月徳広正輝は湧別村字ナオザネ(現中湧別8号線と9号線間・基線西1線)に9万坪の未開地の払下を受け、牧畜を経営しながら蔬菜その他の種苗を遠く函館方面から求めて試作し、品種改良を図って他の耕作者に良質の種子を分けるなど、この地方の農業発展に大きな足跡を残した。
 
明治23年、佐渡の人竹内文吉(後に紋別小向に移り駅逓取扱人となる)が利尻から4号線付近に入地し、30aほどの開墾地にアワ・馬鈴薯・大根などを栽培した。
 
明治24年、竹内は大根・馬鈴薯などを栽培し、当時中央道路開削工事出役の網走監獄囚人の食糧として1本5厘から1銭の割合で1500本余りを販売した。これが当地方における農産物販売の初めであった。開拓書記のころには地力があったので、あまり土地を耕すこともなく極めて単純な作付けと無肥料での栽培であった。ただカケスや野ネズミなどの害は比較的多かったが病虫害の被害は少なく順調な収穫をあげることができた。
 
明治23年の湧別村全地域では6戸の和人がさびしく炊煙を上げていただけで、9号線の徳広正輝から奥地(今の上湧別・遠軽・生田原・丸瀬布・白滝)には和人の姿がなかった。
 
明治26年の後半、湧別原野が殖民地としての貸付が公告され、翌明治27年以降いずれも農業を目的に団体又は単独移住者の姿が見られ、広漠たる湧別原野の中に開拓の鍬がおろされた。
 
河野常吉の実地調査による「北海道殖民状況報文北見国」によれば次のように記録されている。⇒関連(北海道殖民状況報文北見国)

 明治28年徳広正輝は畑地の耕しに初めてプラウを入れて馬耕を行った。進歩した洋式農法の導入によって大いに開墾の能率と成績を上げたことは湧別原野における農業経営進展に大きな示唆を与えた。明治30年、31年の北海道同志教育会学田農場(遠軽)及び湧別屯田兵(上湧別)の団体入植があって、湧別原野全体の開拓が急速に進み、明治33年には湧別村全体の既墾地はおよそ810町歩に及んだ。
 その種類別耕作面積は
  菜種300町歩 稲黍125町歩 大麦40町歩 小麦30町歩 裸麦、馬鈴薯、玉葱黍126町歩、大豆・小豆・その他の菜豆65町歩 果樹、桑、蔬菜類100町歩、薄荷30町歩  (湧別兵村誌より)

 遠軽初期の農耕者

 明治24年の中央道路の開削によって、翌25年湧別原野内に野上(上遠軽)、滝の下(南丸瀬布)、滝の上(奥白滝)の三つの駅逓が設置され、野上駅逓には角谷政衛が就任した。
 
明治26年の春以降角谷政衛は駅逓の仕事のかたわら、自家用の蔬菜類を得るため土地を開墾し、明治27年までに4反歩あまりの耕作地を開墾した。また滝の下駅逓の佐藤多七や、滝ノ上駅逓の中沢沢治もそれぞれの場所でわずかばかりの土地を拓いて野菜類を耕作した。
 
明治27年4月佐藤多七は滝ノ下駅逓取扱人をやめて野上に移り、中央道路開削工事中に使用した囚人仮泊所付近に粗末な草ふき小屋を建て、周囲を切り開いて開墾した。裸麦・イナキビ・アワ・豆類・馬鈴薯などを栽培したが、其の年は霜雪が早く早生の作物以外は収穫が思わしくなかった。加えて野ネズミ・野ウサギ・カケスなど野鳥獣の被害を受け、収穫は皆無に等しく実に悲惨なものであったらしく、自給自足にも事欠いた時代であった。
 
明治30年、野上駅逓の角谷政衛は野上の土地の払下を受け農場経営に乗り出した。石狩方面から早生の雑穀種子を購入して栽培、苦心の改良を重ねた結果、ようやく増収の見通しを得るに至ったので、新潟地方その他から小作人を入れて農場の基礎を築いていった。これが角谷農場である。

 北海道同志教育会学田農場

 本町の開拓の基礎を築いた北海道同志教育会学田農場の開墾面積は、明治32年現在で200haに達していたといわれている。
 
明治33年以降は石狩・日高方面から馬耕請負を入れて開墾したり、学田農場自身でも馬によるプラウ・ハローなど洋式の農具を使用するなど、積極的に新しい能率の上がる耕作技術を取り入れていった。

 北見農事研究会

 明治31年、学田農場ないに北見農事研究会を組織して、農業技術や寒冷地農業法の研究に力を注ぎ、新潟県や山形県からの移民たちに地域に適した農業技術を指導した。研究での結果は多大の成果となって現れ一般の農家をも大いに刺激し、この成果を見習うものが多く出現した。殊に、明治33年以降、北見地方の風土に適した薄荷の栽培技術などは、この農事研究会で研鑽した成果が薄荷耕作農家の多収穫となって現れたのである。
 北見農事研究会は学田農場における農業の技術開発に力点をおきながら、キリスト教徒であり東京専門学校(現早稲田大学の前身)で政治学を修めた野口芳太郎や、農場教育担当で東北学院出身の秋葉定蔵などによる教導は、宗教を通して日常生活の改善にも多くの影響を与え、学田農場としての理想郷建設への情熱を一層強めたといわれている。

 第二節 水稲の栽培

 水稲の試作

 明治30年、北海道同志教育会募集の移民たちが学田農場に入所置くし開拓の鍬を振るったが、耕作可能な作物は麦やイナキビなどの雑穀類が主であった。当時の移住民は、その大半が新潟県や山形県など米作地帯出身者であっただけに、雑穀類だけの食事に耐える生活は苦痛であった。その結果、どうしても自分たちの手でコメを栽培することが移住民にとって大きな夢であった。
 
明治31年、こうした中で学田農場では造田計画を打ち出し、水稲の試作に着手した。やがて北見地方や湧別原野の各地でも水稲の試作が急激に進められた。こうした寒冷地である湧別原野での米作りの実現は、自然を克服し冷害にたたかれても屈することなく、寒地でも稔る品種を作り出した農民の粘りと努力による苦闘の産物であったといっても過言ではない。 
普通プラオ

 ▼明治31年=学田農場では、事務所(岩見通南2丁目)近くの小川の水を利用して、2〜3坪の水田で試作を繰り返した。
学田移民の
飛沢長助(山形県人)も、基線道路沿い(南町3丁目)の湧水を利用して、1坪余りの水田で水稲試験の一歩を踏み出した。
 ▼
明治32年=野上の角谷政衛が、南兵村の菊池勤から種籾を譲り受けて試作したが、成功しなかった。
 ▼
明治35年飛沢は、品種を赤毛種に変えて試作し、わずかばかりの籾の収穫に成功した。。この籾を網走の品評会に出品したが、内地籾であろうと審査から除かれたともいわれている。その後飛沢大城平次郎と共同で試作を続けたが、気候に左右されることが多く、いつともなく試作をやめてしまった。
 ▼
明治40年角谷はその後、農会の委嘱を受けて水稲の試作を続け、苦心改良の結果、年によっては収量・品質ともに、上川・空知方面に劣らない成績を上げることができるようになった。
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大正4年=清川の大泉富蔵が、米俵に付着していた籾を集めて試作したが、実りを見ることは出来なかった。
 ▼
大正8年=家庭学校で、2〜3坪の水田で赤毛種の試作に成功したことから、本町での水稲栽培の見込みが確実となった。その後、家庭学校では水田40haの造田計画が立てられ、「サナブチ米」開発に努力が払われた。また、赤羽農場(豊里)でも赤毛種の試作に成功し、遠軽での水稲栽培に光明を与えた。

水稲の定着

ハロー  こうして、長年にわたって試作が続けられ、寒冷地に耐える品種造りに努力が払われてきたが、なかなか試作の域を脱することが出来ず、大正5年の網走市長管内全体の水稲作付け面積は、、わずか4.9haに過ぎなかった。しかし、大正7年の米騒動をきっかけに、この地方でも米つくりに関心が高まり、道庁の水田奨励策もあって、本町では大正10年に2020haの造田計画が立てられた。大正11年には14.3haの作付けが行われ、翌12年には遠軽土功組合・下生田原土功組合が設立され、この年には34haが作付けされた。
昭和に入っても造田計画は継承され、5年には496ha、6年には634haと増加の一途をたどり、耕地面積の約1割強を占めるまでになった。だが、不幸にも6〜7年、9〜10年と連続して冷害に見舞われ、農家の窮状は深刻の度を極めることになった。このため、寒冷地向けの品種を生み出すことや、栽培技術を確立することが重要な課題となり、農業試験場を中心に品種改良が続けられた。その結果、赤毛種を母体として「坊主」「黒毛」などの寒冷地向けの品種が誕生、中でも品種改良の傑作といわれる「農林20号」がある。こうした品種改良と栽培技術の進展により、寒冷地における水稲栽培に定着の兆しが見られるようになった。 畝切機 馬力による農機具類

 米騒動

 第一次世界大戦(大正3年)が長期化し、大正7年にシベリア出兵が計画されると、これを当て込んで米商人や地主らの買占めや売り惜しみが横行、このため米価が急騰した。7月末、富山県魚津町の漁民の主婦らが、米価上昇に反対し米の県外移出を阻止したのがきっかけで、8月には周囲の町村でも米の移出禁止・安売り要求の運動が起こった。これが「越中女一揆」と新聞で報道されると、大都市をはじめ全国に波及し、各地で米の安売りを要求する群集が、米商人や資産家などを襲撃する大規模な騒動になった。この米騒動は43都道府県に及び、2万数千人が検挙されたといわれたといわれている。寺内内閣は米の安売りを図るとともに、軍隊まで出動させ騒動を鎮圧したが、同年9月、世の非難を浴びて総辞職に追い込まれた。

水稲栽培

 稲作が始められたことは、通称「タコ足」と呼ばれた直播器を使って、種籾を直接水田に播く方法がとられ、昭和の初期まで行われていた。昭和初期の連続した冷害を転機に、冷害に対応できる米つくりが考えられるようになり、昭和10年代には道庁などの奨励もあって、温冷床苗代が普及するようになった。苗代は、地面を木枠で囲い、温床障子を乗せて保温する方法がとられた。この障子も、初めのころには温床紙(油を塗った)が使われていたが、昭和30年代になってビニールやポリエチレンなどが普及してくると、温床にもビニール等が使われるようになり、やがてハウスによる育苗方法へと変わっていった。 
 しかし、温床で育った苗を水田に移植するのには多くの人手を要し、農繁期には学校が休みになり、子供からお年寄りまで、家族総出や近所の応援を受けて田植え作業に従事したものである。こうした田植風景が見られたのも
40年ころまでで、その後は田植え機の普及で、其の姿はほとんど見られなくなった。
直播器(たね籾直播器)
水稲栽培  稲作には、この外にも収穫までに多くの作業が伴う。豊里郷土史によると、昭和5年には地区の農事実行組合が機会を保有し、石油発動機による脱穀・籾摺・精米を初めて使用されたとある。戦後は農村電化が進んだ23年から、電力によりこれらの作業が行われていたようであるが、農機具そのものにはあまり進歩が見られなかった。
 
昭和30年代になって、水田の起耕に耕耘機が使われるようになり、機械化農業の幕開けを向かえた。田植機の出現で人手を要しなくなったと同様に、収穫作業にもコンバインが導入されるようになり、刈り取りから脱粒まで、機械による一貫した作業になった。

 米の供出

 昭和17年2月「食糧管理法」が公布された。そのために主食の米も含めて雑穀類は政府の監督の下において、すべて「食糧営団」が取り仕切った。水田農家は所定の自家保有米を除いて公定価格による「供出米割当制」が強制的に義務付けられた。
 
昭和20年は未曾有の冷害による凶作など悪条件が重なって食糧危機となった。農家は供出そのものが深刻となり政治問題となった。この供出不振の原因は凶作による産米不足が主因だが其の他に、供出は公定価格が異常に低かったこと、裏を返せば逆にヤミ値との比較が大きかったこと、農家が必要とするものは物々交換でなければなかなか入手できなかったこと、農家の先行き不安から米を手放そうとしなったこと等によるものであった。

 米の強権発動

 昭和21年2月、政府は「食糧緊急措置令」を公布した。これは昭和20年産米の供出を促進させ、食糧危機を突破するための措置令であった。これによって供出を完納していない農家に対する強制買上げ又は収用令を発動しての「手持ち米の差し押さえ」が出来るようになった。本町でも強権発動の情報が伝わり、わずかの米を隠すのに苦労したという。家から離れた藪の中・天井裏・床下・壁の中・籾殻の中などに隠した。

 生産調整(減反政策)

 昭和42年から水稲は三年連続の豊作となり、米の生産量は向上したが消費量の減少などから、昭和45年には720万トンの古米在庫となった。無計画な生産と政府の買い入れは、生産者から高く買い消費者に安く売る「逆ザヤ」現象で、食糧管理特別会計は昭和39年〜43年までに9627億円(麦も含む)の膨大な赤字を抱え、当時、古古米などを飼料に放出すると、トン当たり10万円の損になるといわれた。
 
昭和45年12月、農林水産省は「農業新地図」を発表した。農業新地図はコメに片寄った農業生産構造改善の地域指標で、昭和52年の実現を目指した農産物10種類の地域別生産の有り方をコンピューターではじき出した。それに沿ってコメの生産については、昭和45年産米の30%を減じて1106万トンとした。これらの打開策として政府の買い入れ予約限度制を実施し、同時にコメの減反の推進、すなわち「減反政策」がとられた。施策として「休耕=水田を休ませる」と「転作=水田に他の作物又は永年性植物を栽培する」が採用された。
 新規開田を抑制し既存の水田には休耕が割り当てられた。休耕田には休耕奨励金が10ha当たり平均4万円、稲作からの転作には10aあたり3万から35000円の奨励金が支給された。何も作らなくとも農民にはお金が入ることになったが、このことは堕農を招き、一部の農家には奨励金を得るための「捨て作り」が見られるようになったことから、休耕奨励金制度は
昭和48年で打ち切られ転作だけが対象となった。
 
昭和46年以降の米作は、全国的にも豊作で食糧の自給力は向上したが、一方、消費面では政府や関係団体が米の消費、多角的利用などの宣伝に努めたものの消費の減退は依然として続き、恒久的な水田利用の対応を迫られた。 ⇒関連(水稲作付面積の推移)

 昭和51年5月「水田総合利用対策実施要領」が3ヵ年の時限を持って出された。これは水田の多面利用を促進する対策がとられたが二ヵ年で終わった。
 
昭和53年4月「水田利用再編対策実施要領」が出された。これは長期的展望にたって米の需要調整を図るため、おおむね10ヵ年計画で麦・豆・飼料等を水田に作付けさせ、農業の複合化の定着を図った。
 こうした一連の減反政策は、農政史上初の出来事であり、比較的水田の比率が少なかったとはいえ、本町農業の在り方にも少なからず影響を与えた。
 米の生産調整は、
45年を初年度に始められたが、47年度には一挙に3分の1にまで面積が減少した。反面、飼料作物の作付けが伸び、国や町の酪農振興政策が推進されたこともあって、酪農経営へ方向転換する大きなきっかけになった。その後も本町の減反は徐々に進み、50年代中ごろからは生産物として出荷されるより、自家用として作付けされるほうが多くなり、現在では、わずか5haほどの水田面積になってしまった。
 
平成6年12月、ウルグアイ・ラウンド農業合意により「主要食糧の需給および価格の安定に関する法律」が制定され、翌年11月から施行になった。これは、戦時中の昭和17年以来続いてきた。食糧管理法に代わって制定されたもので、米の生産調整・流通制度・価格形成などにおおきな変化が起こり、「コメ新時代」を迎えることになった。流通面では自主流通米が中心となり、生産者が直接消費者に販売したり、取扱業や販売業への参入が自由(許可制から登録制に代わった)になった。その結果、これまでの米穀店以外に、スーパー・デパート・コンビニ・生協などでの販売が始まり、本町でも平成8年度の登録店は、41店舗(従来は15店舗)を数えている。

第三節 薄荷の栽培

 薄荷

 薄荷はシソ科の多年性植物で、現在世界各国で栽培されている薄荷草は、和種(ニホンハッカ)・洋種(ペパーミント)・緑種(スペアミント)の三種類に大別される。和種はメントール(ハッカ脳)の含有率が最も高く、取卸油からハッカ脳やハッカ油に精製され、その薬効や芳香は、医薬品・化粧品・菓子・洋酒などに幅広く利用されている。
 薄荷の歴史は古く、特有の爽快な香気は、古来人々の注意をひきつけたものと見え、今から4000年以前のエジプト文明のころ、既に富豪の香水風呂に用いられていた。また、ピラミッドに納められたミイラの頭に、乾いた薄荷の葉がしかれてあったことが明らかにされている。
 日本でも薄荷は野生のものがあり、平安時代に「波加」といわれ山菜として食されていたが、やがて薬物としての利用が盛んになった。本格的に栽培されるようになった和種薄荷は、東南アジアの原産とされ、中国から仏教とともに伝来したと考えられ、
文化14年(1817)岡山県の秋山熊太郎が、江戸から薄荷の根を持ち帰って栽培したのが最初であろうといわれている。安政元年(1854)年には、広島県の佐藤亥三郎が薄荷を栽培して蒸留に成功、近隣に作付けを奨励するとともに製油機の開発にも努めた。同じ頃、山形県でも薄荷栽培が盛んになり、明治6年にはロンドンに輸出されるほどになり、薄荷ブームに沸きかえった。明治10〜20年代は、山形・岡山・広島が三大生産地であったが、30年代に至ってその舞台は、本町を中心とする北見地方に移った。

 北海道に伝わる

 明治17〜18年ころ、日高の門別地方や胆振国八雲村の徳川農場で山形県から種根を取り寄せて植えつけたものが最初であるといわれている。
 
明治24年ころには、胆振の虻田・有珠・伊達地方でも山形県から種根を取り寄せ試作し胆振地方に薄荷を広めたが、この地方ではあまり成功しなかった。
 同じ頃、山形県村山郡高櫛村から屯田兵として上川管内永山村に移住した
石川伝太郎の父伝兵衛が、郷里の山形県から薄荷の種根を取り寄せて栽培してから永山村全体に薄荷が広まった。しかし、水稲栽培が普及するにしたがって薄荷の耕作は減少してしまった。やがて永山の薄荷は北見地方や十勝地方へも広がり、薄荷といえば北見・北見といえば薄荷を思い出すほど薄荷は質量ともに世界的に有名な地域となった。

 湧別原野での薄荷栽培の推移

 福島県会津若松の人渡部清司が湧別原野で最初の薄荷を耕作した人である。文久3年(1863)渡部は会津若松城東部の小田垣郊外で薬種卸商人渡部清三郎の長男として生まれた。渡部清司は少年のころ横浜の薬種商小林商店に奉公したが、その時代に薄荷の製油方法を覚えた。
 
渡部明治15年4月、北海道の開拓を志し、その視察のため函館から陸路江差〜寿都を経て小樽に着き、7月に帰郷している。明治19年8月、一家を挙げて札幌に移住し、製網所の麻の買い付けに従事して150円の利益を上げ、これを資金とし同県人を頼って礼文島香深村に転住、雑貨商を経営すること五年間で約千五百円の蓄えを得た。渡部はかねての宿願であった農業経営に着手するため、香深で上野徳三郎らと計画し、明治26年8月から約1ヵ月間にわたって宗谷・網走地方の山野を踏破し未開の農業適地を調査した。このとき、紋別村から湧別村に向かう途中、藻べつの湖畔で野生の薄荷が雑草の中に自生しているのを発見した。薄荷に経験のあった渡部はこの薄荷を近くに住むアイヌに刈り取らせ乾燥薄荷6.75kgを得た。さらに調査の結果、湧別原野は肥沃な土地で農耕に有望であることを確かめ、薄荷栽培を中心とした農業経営をこの地に拓くことを決意した。早速この年、道庁に20余万坪(66ha)の未開地の払下を願い出たが、あいにくこの時期は区画選定中のため払い下げは認められなかった。
 
明治26年12月渡部は福島の郷里に母を迎えに帰郷のおり、先の乾燥薄荷を持参し横浜の小林商店の薄荷工場で採油の結果、3.75sから13.5gの製油を得た。これによって湧別原野は薄荷の栽培適地であり、将来有望な作物であることを確信した。
 
明治27年3月、渡部は薄荷栽培を決意して山形に赴き3.75sの種根を手に入れ、礼文島に戻り上野など仲間47人と礼文団体を組織し、4月湧別村殖民区画地に47戸分70万5000坪(約233ha)の貸付を受けて移住した。渡部は湧別村西1線7番地に入地した。しかし、山形から取り寄せた種根は途中で枯死してしまい、むなしく捨てざるを得なかった。
 
明治27年9月渡部は北海道で栽培している薄荷の種根を求めて奔走するが、最終的に上川郡永山村の植松戸長の斡旋によって石山伝兵衛から3.75s20銭の割で22.5sの種根を譲り受け、中央道路を通り駄馬で北見峠を越えて湧別の地に持ち帰った。これを1aの畑地に植え付けを行ったのが湧別原野に薄荷が根を下ろした最初であった。
 
明治28年9月、昨年植えつけた薄荷を収穫し、乾燥薄荷37.5s余を収穫、これを簡易な蒸留器で製油し粗油約350gを得たので各商社にその価格を照会したところ、東京の商社から1斤(600g)2円75銭、山形県北村山郡の某店からは2円40銭から2円75銭で購入する旨の回答を得たので、いよいよ薄荷栽培は有望な農作物であることを確信した。この年の秋、湧別村4号線に居住の山形県人高橋長四郎が薄荷栽培の経験があるということを聞き、渡部は勧めて2.25sの種根を私植え付けさせた。また、渡部高橋の親類の池田長蔵にも取り卸製油法を指導した。
 
明治29年の秋、高橋渡部の蒸留器で4s余の製油を得た。また渡部はこの年までに約8sの製油を得るとともに山形に送って1組(1.2s)6円50銭で販売した。
 
明治30年高橋長四郎・有地護一・越田兼松が相談し、永山村から薄荷の種根560sを購入し、各自5haの新開墾地に植えつけたが、せっかくの種根も輸送途中の損傷と腐敗により翌年発芽する種根は少なかった。そのために越田高橋に、有地は小作人の植松に土地を譲って両名とも他の業に転じた。
 
高橋植松はともに薄荷栽培には経験が浅く、その製造方法や販売などにも精通していなかったため、薄荷が学田農場から各地に普及されるまでは、あまり良い成績を上げることはなかった。
 しかし、
高橋の名は近隣に広がりやがて高橋は「ハッカ高橋」と世間から呼ばれるほど専門的な技術を持った耕作者になった。渡部は後に湧別地方に薄荷が普及するようになってから、小林時代の経験を生かして小樽から亜鉛板、銅版を取り寄せ、ブリキ職人を入れて薄荷製造器を製作販売した。また、渡部は薄荷栽培の実績が認められて網走三郡の農会副会長の地位に就いた。さらに渡部は薄荷の種根を無償で譲ったりして薄荷の普及宣伝に各地を回り歩いた。

 薄荷学田農場に入る

 明治30年の大冷害、そして明治31年の大水害は、学田農場も小作人も再起できないほどの多大な被害を与えたのであったが、この悲惨な災害を被った学田農場に明るい将来の希望を与えたものは、野口芳太郎などによるキリスト教の受難の思想であり、もう一つには、明治33年以降の薄荷の栽培によって農民の収入が急速に増え、経済的にも立ち直り、学田農場全体が復活する兆しが見えてきたことであった。
 
明治32年4月、学田農場に最初に薄荷を取り入れた人は佐竹宗五郎小山田利七・小山田秀蔵であった。3人は同じ学田移民者の石川雄八から、湧別村4号線付近で高橋長四郎が薄荷の栽培をしていることを知らされた。かねてから薄荷の栽培に大きな希望を持って移住してきた3人は、高橋から薄荷の種根を3.75s当たり20銭の割合で412sを買い入れた。佐竹は西1線235番地(現福路西1線道路)の自作地に植えつけた。小山田利七・秀蔵は基線214番地(現大通北1丁目・北見バス遠軽営業所付近)の自作地に植えつけた。この外に小山田利七は郷里山形県から小包で種根を取り寄せて植えつけた。佐竹小山田たち3人の移民の目的は郷里山形で営農作物としては失敗であった薄荷栽培を、この新開地で実現する夢を抱いて入植したものであったから、薄荷の苗を道端近くの畑に植えて、多くの人の目につくようにした。
 この年、
小山田利七は郷里山形から製油器(天水釜)を取り寄せ10.8s、秀蔵は7.2sの製油をした。これを山形県北村山郡小田島村小野金太郎に送って販売を委託し、600g3円25銭で販売でき97円50銭の収入を得た。薄荷は、交通不便の開拓地に頼る有利であることを農場の移民に勧めたが、山形での失敗にこりた人たちは、薄荷を作る者は「ハンカクサイ」奴だとかえって嘲笑され、これに耳を貸す者は少なく、最初はあまり相手にされなかった。しかし小山田たちの薄荷栽培に対する信念は強く、信太寿之農場監督の心を動かした。

 信太農場監督の決意

 明治33年早々、信太は薄荷の価値を農務省や関係機関に照会した。その結果、湧別地方の気象や土質が薄荷栽培に適し、それに運搬費の軽減と反当収入の多いことなど、見通しの明るい作物であることが確信できた。
 
信太は水害にあった農場の復旧対策としても薄荷栽培の奨励を決意し、33年春、湧別中の薄荷の種根を買占め、小作1戸につき30a当てを強制的に栽培させ、秋の収穫で粗油と種根の半分を返す方法をとった。この信太の積極的な奨励策によって学田農場は急速にその産額を増し、農民の経済も年ごとに立ち直っていった。実に薄荷は学田農民の救世主であったといっても過言ではなかった。
 
33年秋、小山田利七は30aから21.6sの製油を得たので前年同様に山形の小野に委託し1斤(600g)3円25銭で117円の売り上げを得た。これは実に10a当たり39円の収穫であったから、いまさらのように一般農家の注目を引くようになった。
 
明治34年以降、薄荷栽培は一層有利な作物であることが他村にも広まり、学田地に薄荷の種根を買い求めに来る馬車で沿道は賑わい、そのために明治の末期ころには基線(現大通)に沿って市街地が形成されるなど、学田地は急速に発展していった。

 薄荷の普及

薄荷刈り取り作業  明治36年の「殖民広報」によると、学田の薄荷耕作面積は、明治35年の18町2反歩から(18,2ha)36年には80町歩(80ha)と、急激な作付けの増加が掲載されている。なぜ、このような急激な普及となり、薄荷王国を形成したのであろうか。薄荷には相場の変動という不安定な要素を除けば、次のような利点があり、開拓者の魅力になったことは確かである。

▼反当収入が他の作物より多かったこと。
 薄荷は、概して収量の多い年は値が下がり、収量の少ない年には値が上がるなど、価格変動の激しい作物であったが、農家の手取りは平均していた。
▼耕作には比較的手間がかからなかったこと。
 種根を一度植えつけると数年収穫できるので、年に1回の耕起で事が足りるのは、開墾に忙しい開拓者にとっては、労力の省ける好都合の作物であった。
▼気象条件や土地が適合したこと。
 北見地方は風も穏やかで夏の気温も比較的高く、秋の収穫期には雨が少ないなどの気候に恵まれ、また、当時の肥沃な地味が幸いしてよく成長し、山間傾斜地にいたるまで作りやすかった。
▼取卸油の運搬が軽便であったこと
 約2反歩の収穫(取卸油)が、石油缶1個に収納できるという利点は、輸送事情の不備な当時としては、大いに歓迎された。

薄荷の植え付けから収穫まで

▼植付け = 薄荷の栽培は種子でなく「分根法」で秋植えと春植えがある。秋植えは薄荷の刈り取り後10日ほど経過してから掘り取って種根にする。春植えは値が丈夫であり、発芽が良好である。
 植付けするには畑を耕して整地し、まずひと鍬起こしてそこに種根を植え、次の鍬で種根を土で覆い、3鍬ごとに種根を植えるので「送り植え」といった。
▼除草 = 床薄荷は春先の発芽前に整地と除草を兼ねてハロー掛けを行う。アカザ・ハコベ・アザミなどの雑草は比較的簡単に除草できたが、カマドガエシなどの宿根草にはどの脳かも手を焼いた。
▼収穫 = 薄荷の収穫は9月中旬からすべて手刈りで、1人1日5畝(5ha)が普通であった。刈り取った薄荷は乾燥小屋まで運び、それを夜半までかけて縄で編み、梁につるした。暗いカンテラの明かりの中で、一握り、一握り、互い違いに縄で編み、その日に刈り取った薄荷はその日のうちに必ず編み終え、やっとその日の1日が終わるのだ。薄荷の乾燥のために、どの農家も薄荷小屋を建てていた。小屋の材料入手難や小屋立ての手間を省くために「はさ掛け」が次第に行われた。

▼薄荷製造 = 乾燥した薄荷は蒸留して油を取り出し、初めて価値が生まれるのである。この薄荷蒸留作業が大変な重労働であった。蒸留作業はカマ場とか薄荷小屋と呼ばれた別棟の掘っ立て小屋で行われた。しかし、蒸留施設はどこの農家でも持っているわけではなく、数戸の共同所有化個人所有の施設を借りる場合もあった。借りた場合は1日いくらかのカマ代を支払った。
 作業は別名「かえし銅」とか「せいろ」と呼ばれる木製の蒸し桶に乾燥した薄荷を入れ、上蓋と下釜で押さえたあと蒸気で蒸し、水蒸気を冷却して油成分(取卸油)を取り出す。 
⇒関連(収支比較)
薄荷蒸留作業(大正5年頃)

 薄荷仲買人入る

 明治34年以降、薄荷の生産が増大するとともに、秋の収穫期には薄荷貿易商が直接買い入れの方法が行われるようになった。山形県から清野某・東海林某の両人が、また横浜の貿易商小林商店が始めて来村して製油1斤(600g)を3円20銭から30銭で買い入れを行うなど、学田地での薄荷油の販路が開け農家の薄荷熱をますますあおった。
 
明治36年に入ると神戸の鈴木合名会社が学田地に入り各農家ごとに薄荷油の買い付けに走り回った。
 
明治37年、神戸のウインケル社、横浜の多勢正平、長岡佳介などの各商社が競争して薄荷取卸油を買いあさり始めた。その手段として代金を前貸ししたり時には生活用品や肥料の貸付を行ったり、ついには青田取引までを行うありさまであったから、薄荷の値段が高騰し、10月上旬には1斤(600g)5円になり、さらに下旬には7円70銭の高値を呼ぶようになった。しかし、防疫商社の買取知識にうとい薄荷農民は、各商社の口先に乗ぜられ、すでに5〜6円台の価格でほとんど買い叩かれてしまったといわれている。
 
明治37〜38年の薄荷相場は4円ないし4円50銭台を上下していたが、明治39年には日露戦争の余波と社会状勢の乱れから2円45銭から3円70銭前後に下落し、結果的に薄荷農家の収入は大きな減額となった。 ⇒関連(薄荷取卸油価格)

 明治39年、神戸のウインケル社・横浜の多勢正平・それに小林・鈴木の四大手業者は、深夜料亭の一室にて会合、その年の薄荷の買い付け値段を協定し、農家の手持ちの薄荷を大手業者の一方的な価格捜査で取引されていたが、やがてすべて買い叩くための共同戦線を張った。このような「泥棒商売」とか「根こそぎとる戦術」など、農民も不当な薄荷相場のからくりを知るようになり、大手の商社に対して疑惑の目を向けるようになった。(このような商法がやがてサミュエル事件に発展していくのだが、サミュエル事件の概要は次の項で概略記した)

 薄荷景気の裏表

 明治30年代後半から大正の初期ごろの薄荷耕作農家は、まさに薄荷全盛であった。どの農かも自給作物以外はすべて薄荷を耕作し、出来秋にはめまぐるしく変動する薄荷相場に芽を血走らせる毎日であった。ひとたび大金を手にすると「飲む・打つ・買う」の極道をつくし、再び貧困の中へと身をやつすものがあとを絶たなかったという。
 
明治45年、湧別原野の薄荷耕作の現状を視察した網走支庁長山浦常吉の談話から「北見の富源」より

 薄荷耕作地方では幾分かの貯金も出来ていますが、然し風紀の乱れつつあることは憤慨に耐えません。薄荷商売の盛んなときなどは賭博が流行して婦女子にも恥じるという有様です。白首屋(ごけや)と称する小料理屋の繁盛ときたら実に一驚のほかありません。また薄荷売買当時、金銭の取引は昨年10月より本年1月までの僅か3ヶ月間において上湧別・遠軽郵便局扱いが6万円に上がり、下湧別局は一ヵ年の現金取り扱い高が120万円、切手販売が1万円にもあがったとのことである。……と山浦常吉網走支庁長は薄荷景気の盛況を功罪両面からいましめの意味も含めての談話を発表している。

 薄荷の消長

 日本の薄荷は、世界総生産額の8割を占めるまでになったが、戦時中は食糧生産が優先され、耕作面積は衰退の一途をたどった。戦後も、食糧危機に直面したことから主に食糧作物が咲く付され、薄荷の入り込む余地はなく、食糧作物に適さないやせ地で細々と栽培されていた。こうした全国的な耕作面積の減少から、取引価格は高値を呼んでおり、昭和22年に薄荷再興を志す同志により「遠軽町薄荷耕作組合」が設立され、農家経済の安定を図ることにした。 ⇒関連(薄荷作付け面積の推移)

 幸い、24年に設置された農業試験場では、薄荷の品種改良事業に取り組んでおり、28年に万葉、29年に涼風の優良品種が誕生して、一挙に生産性が高まった。その結果、30年代には高収益作物として定着し、32年の553haを再興に、200〜300haの薄荷が栽培されるようになった。
 ところが、その後はブラジルや中国産の安い薄荷、さらには合成薄荷の進出により、国際市場の下落で価格は低迷することになり、薄荷の前途は厳しいものになった。また、一方では酪農振興という時代の流れもあって、再び耕作面積は減少の一途をたどり、
50年代には香料メーカーとの契約栽培だけになり、59年を最後に姿を消した。

薄荷記念碑

薄荷記念碑(明治44年建立)  明治44年11月、学田農場の一角瞰望岩下の遠軽公園内に薄荷記念碑が建立された。湧別原野で特に学田農場の開拓が著しく進展したのは、論を持たず薄荷の栽培によるところが非常に大きかった。記念碑の建立には、兼重上湧別村長が発起人代表となって有志に図り、薄荷記念祭を催したがそのとき、神戸・横浜などの薄荷買い付け商人からも記念碑建立のための寄付を得て、木製の長さ15尺・四方2尺の「薄荷記念碑」を建立した。薄荷記念碑には関係者多数が参列して記念碑の除幕式や盛大な記念行事を開催した。薄荷功労者には賞状と記念碑が送られた。

 薄荷耕作記念碑の建立  時代の流れとともに老朽化して「薄荷記念碑は姿を消してしまい、写真が残るのみとなったが、本町の薄荷工作者をはじめ、関係者の間に新たに薄荷耕作記念碑建立の声がたかまった。記念碑建立は遠軽薄荷耕作組合が中心となり、遠軽町をはじめ遠軽町農協・商工会・系統連合会等の後援によって、昭和32年6月、明治44年に建立されていた跡地に実現した。

 この記念碑には次のような碑文が刻まれている。
  
当町に於ける薄荷の栽培は、北海道薄荷発展の基礎を築いた発祥の地ともいえる。すなわち、明治32年小山田利七氏外2名の当町字学田における工作がこれである。爾来急激な栽培は、当遠軽町は勿論近郷町村の経済文化の向上に奇興するところが大きく、明治44年には当町工作者挙げて記念祭を挙行した。其の後、諸藩の情勢により幾多の盛衰を経たが、北海道寒冷地帯の農家の安定を図る上に本作の重要性はますますその度をたかめ本年は全道100万斤の生産に垂る隆盛をみるにいたり洵欣とするところである。慈に遠軽町開基60周年遠軽町薄荷耕作組合創立10周年を迎えるにあたり碑を建て之を記念する。
   昭和32年6月15日       遠軽町薄荷耕作組合
再建立された薄荷耕作記念碑(昭和32年6月建立)

 薄荷に代わる青シソの栽培

 薄荷に変わる新規作物として、60年から青シソの栽培が始まった。青シソは戦時中に甘味料として町内でも栽培されていたが、戦後は全く手がけられていなかった。薄荷の蒸留施設がそのままシソにも利用できることから、本格的な普及を図ることになり、この年、東京の香料メーカーとの契約で、8戸の農家が2.6haの栽培をした。蒸留施設が長年の使用により老朽化してきたので、平成8年に清川に新しい蒸留施設を完成させ、9年には20戸で50.8haの栽培をしている。

第四節 工芸作物の栽培

 亜  麻

 北海道で亜麻が耕作されたのは、明治19年に近江麻糸紡績会社が、北海道の気候風土に適した作物であることに着目、栽培を広めたのが始まりである。翌20年に北海道製麻株式会社が設立され、23年に操業を開始すると、道庁の奨励もあって重要商品作物になった。
 亜麻は茎が繊維原料となり、種子は油の原料(亜麻仁油)として販売でき、農家の栽培も容易で、しかも夏作であるため換金が早いという利点があり、戦時中は時局作物として奨励された。
 本町で耕作されたのは
大正4年ころからで、帝国製麻株式会社野付牛工場の勧めで、野上渡船看守人の青野留吉が種子配布の委託を受けて、耕作希望者に配布したのが始めてである。この年の12月、湧別に日本製麻株式会社の工場が建てられ、本格的に奨励されるようになった。大正9年には、本町にも帝国製麻の工場が建てられたが、湧別の工場との原料争奪による原料不足のため、遠軽工場は3〜4年で閉鎖した。
 亜麻は造りやすい作物ではあったが、連作がきかず、一度耕作すると7〜8年は同じ土地で耕作できないという特性から、奨励された割には作付面積はのびなかった。しかし、日華事変・太平洋戦争の時代を迎えると、軍需品として時局作物に指定され、指導官庁からの割り当てに基づき増反された。
昭和20年ころ、帝国製麻は学田(現遠軽中学校付近)に、新たに工場を設置すべく建設中であったが、終戦により中止になった。
 戦後は深刻な食糧難のため食糧作物本位の作付けとなり、大きく面積を減らしたが、繊維事情の悪化もあって、引き続き亜麻栽培は奨励され、60haの前後の耕作が続いていた。しかし戦後の復興とともに、輸入繊維や化学繊維が出回るようになり、価格の低迷から徐々に耕作面積は減少した。そして、
昭和40年に、日本繊維工業株式会社の業績不振から湧別工場が閉鎖になり、本町から亜麻の姿は消え去った。⇒関連(亜麻の年次作付け面積・収量・収穫量)

 てん菜(ビート)

 北海道におけるビートの栽培は、政府が砂糖の輸入を抑え自給する必要があるとして、糖業の保護政策に乗り出し、明治4年(1871)開拓使時代の官園において試作したことに始まる。
 本町におけるビートの作付けは
大正8年に、学田や瀬戸瀬で試作したことに始まるが、帯広の北海道精糖株式会社が農家圃場で委託試験を行っていることから、同会社の委託を受けて試作したものと思われる。
 
大正14年には8.7ha、昭和2年には14haと面積は増加し、この間、てん菜改良組合が設けられ、ビートの作付け奨励や耕作指導が行われてきた。
 
昭和9年、北海道に製糖工場を2社増設する計画が発表され、本町も工場誘致に努めたが、根釧・天北原野開発の理由で釧路の磯分内と上川の士別に工場が建設され、11年から操業をはじめた。このときから遠軽のビートは士別に出荷することになるが、当時は薄荷栽培が旺盛であり、工場誘致も実らず栽培に多くの手数がかかることなどから面積は増加せず、本町における本格的な栽培は第二次大戦後である。
終戦後は、物不足、特に甘味資源の不足からビートは砂糖の代用品として活躍し、ビート糖蜜として自家消費されたほか、闇商品へも流れていった。こうした自家消費から原料不足が生じ、製糖会社では集荷策として、精糖を還元するという方法が講じられた。
昭和28年1月、砂糖の自給対策から「甜菜生産振興臨時措置法」が公布され、国の保護が確立されtので、ビートの耕作面積は一挙に伸びた。こうした状況から、網走管内にも製糖工場が進出し

 昭和32年 北見市に芝浦製糖株式会社 北見工場(43年に北海道糖業株式会社北見営業所)
 
昭和33年 斜里町にホクレン  中斜里製糖工場
 
昭和34年 美幌町に日本甜菜製糖株式会社  美幌製糖所

 が相次いで操業を始め、本町のビートは芝浦製糖へと出荷先が変わった。
 
30年代以降は、寒冷地の安定作物として、また、ビートトップやビートパルプは家畜の飼料として利用できることから、酪農かも作付けするようになり、本町の基幹作物として定着した。一方栽培面でも、ペーパーポットによる移植方式が普及して、間引きや除草などの労力削減、また、多くの労力と時間を要した収穫作業も、収穫機械の導入により省力化が図られた。加えて、昭和52年12月には遠軽町農業協同組合の「てん菜共同育苗施設」が学田に完成し、翌年から強健苗の供給を開始している。⇒関連(てん菜作付面積の推移)

 除虫菊

 除虫菊の原産地はユーゴスラビアといわれ、1964年に発見報告されている。殺虫効果の顕著なことが認められ、殺虫用として欧州諸国へ輸出され、1875年ころからは原産地及び欧州諸国やアメリカで栽培されるようになった。
 日本に輸入されたのは
明治18年(1885)ころであり、わが国の風土に好適し、また需要の増加に伴って栽培が極めて有利であることが認められて、和歌山県など広く各地に栽培された。
 本町での栽培は、
大正8年ころからで、後に社名渕から札幌に移った農産物の種子商人名沢一二によって広められたという。その後、年ごとに工作者が増加し、大正14年には102haの面積になった。
 第二次世界大戦によって輸出が途絶えたため、価格は低迷し、除虫菊畑は荒廃地と化し、あるいは他の作物に転換されて本町における栽培の歴史を閉じている。

 菜種

 開拓当時の換金作物として、春季に他の作物の播種が終了後の新開地に作付けできるという営農上の利点と、少ない種子量で粗雑な畑でも生育しやすいということもあって、開墾地では主要作物として栽培された。
 
明治31年、札幌に北海道製油株式会社の創立があって採油原料としての菜種の市場性が高まった。
 
明治34年には屯田兵村に共販組合が結成され、学田地でも10〜20aほどの面積で栽培したという記録がある。其の後の作付け状況については薄荷が出現した明治35年以降はその姿が消えうせてしまった。

 ニンニク

 本町におけるニンニクの栽培は昭和36年からである。これより先、昭和34〜5年ごろ種子馬鈴薯組合の人たちが道内視察中の山村で、このニンニク栽培を検分した。耕地面積が狭くても反収の上がる作物を模索中であったので、ニンニクの栽培を試みようとする希望が多く、昭和36年秋、富良野町から種球根を求め清川地区の数戸が試作に踏み切った。ニンニクは順調に生育し、翌37年7月に本町で販売用ニンニクが始めて収穫された。
 このニンニクを関西方面に出荷したところ、思いのほか高値で売れたことから、清川を中心に町内各地で栽培されるようになり、
昭和45年のピーク時には25ha余の面積を有した。ニンニクは古くから保健野菜として知られており、肉食や中華料理の普及で需要は伸びている。だが、中国や台湾産の輸入物が増えたことや、東北地方が生産地を形成したこと、さらには酪農経営による規模拡大などから、本町でのニンニク栽培は20年たらずで終わった。

第五節 豆類の栽培

 豆類

 開拓当初から大豆や小豆は、味噌・餡などの自家用加工原料として、えん豆や菜豆は自給野菜として作付けされていたが、換金作物としては重視されていなかったようである。特に本町では、明治から大正に時代が代わっても、以前として薄荷栽培に力が入れられており、豆の本格的な栽培は見られなかった。
 ところが、
大正3年の第一次世界大戦の勃発により、突如として「豆ブーム」が出現し、一表の値段が朝と晩とでは3〜5円も値上がりする状況が生じた。これは、欧州の戦線諸国を食糧の窮乏に追い込んだことから、戦争の圏外にあった日本は不足食糧の補給基地と化した感があり、殊に北海道の農村はどこも異常な活況を見せた。それは豆類を自給作物から一躍輸出農産物としての座に引き上げ、市場の冒頭で販売作物の王座にのし上がった結果であった。主力は手亡と青碗豆で作付けを増やす農家が続出し、自給食糧の作付けを豆に買えて「豆を売ってコメを買う」実態まで出た。さらに「豆成金」が現出し、換金作物の王座を占めていた薄荷までが巻き添えを食う有様であった。この好景気によって木材業に従事していた人や商人までがにわか農家として荒地を開墾し豆類を耕作するなど、一躍農家経済を潤した。
 しかしこの好景気も大正8年、第一次世界大戦終戦と同時に菜豆類をはじめとしてすべての輸出作物は大暴落を来たし豆作農業は多大な打撃を受け、全盛を極めた豆類はそれ以後海外への輸出が見られなくなり、一転してまめの作付けは低迷することになった。

昭和15年10月、輸出入臨時措置法の公布に伴う「雑穀類配給統制規則」で小豆・菜豆・えん豆・緑豆・蚕豆が統制され、大豆は同年10月「大豆及び大豆油等配給統制規則」により統制された。
 戦時統制経済のもとでは農業生産は主食の増産確保が第一義となり、作付けはコメ・麦をはじめとする食糧農産物に大きく転換した。
 戦時中に減少した豆類も、戦後の幅員や帰還者の増加、新規開拓入植などで増加に展示、なかでも主食を補う正確の強い大豆は、いち早く回復した。
⇒関連(大豆作付け面積の推移)

 昭和26年には麦を除く雑穀類の統制が解除になり、自由な取引ができるようになると、昔の夢を追うものも出てきて、豆類の作付けは著しい伸びを見せた。だが28〜29年は冷害、30年は豊作貧乏に襲われ、とかく冷害に弱い、小豆などは「赤いダイヤ」と呼ばれたこともあったが、相場価格が不安定なことから、次第に輸作体系に組み込まれる程度の作付けになった。⇒関連(小豆作付け面積の推移)

 昭和36年に大豆が貿易自由化品目になったことから、「大豆なたね交付金暫定措置法」の制定と、49年以降、生産奨励措置による国の保護の道が講ぜられたが、輸入品と国内産の価格差はますます大きくなり、酪農の振興とともに、豆類の作付けは減少の一途をたどった。⇒関連(其の他の豆類作付け面積の推移)

第六節 麦類及び飼料作物の栽培

麦類

 日本では、小麦・大麦・裸麦を併せて麦類という。これは、栽培、収穫など、主として生産に関係した条件が似ているための習慣である。
 大麦と裸麦は同種の植物であるが、小麦は別種の植物で穀粒の性状も違う。用途は日本では大部分の小麦は粉食、大麦・裸麦は粒食とされているが、外国では小麦は粉食・大麦は一部が醸造原料になるほか、ほとんどが家畜の飼料となる。また、えん麦・ライ麦などは、あわ、ひえなどと一緒に雑穀として扱われている。北海道における麦類は、水稲栽培が盛んになるまでは畑作農家の主要食糧として極めて重要な意義を持っていたし、北海道のように冷涼な気候に適し、その適応性は開拓当初より認められ、畑作農家の安定作物として輪作の中の主要な地位を占めていた。本町においても、学田地開拓のころから主要食糧として作付され、水稲が栽培されてからも畑作農家の主要食糧であり、戦中戦後の食糧難時代には麦類はもちろん、えん麦などまでが食糧となった。

小麦

 三大穀物の一つである小麦が北海道で栽培されたのは明治以前にさかのぼるが、其の後の栽培の経緯は、開拓使によってアメリカ合衆国より種子を輸入して栽培を広めたことに始まる。
 開拓の当初は新開地であり、土地肥沃のため、茎の長いアメリカ品種は倒伏による被害がはなはだしく、一般には「チッコ」という在来種が普及した。しかし、年とともに、茎の短い在来種では収量が上がらず、品質もアメリカ種に劣っていたため、逐次アメリカの品種が栽培の中心となった。
 網走管内の作付けが本格化したのは、屯田兵が入植した以後の明治32年からであり、大正5年には全道の作付面積の25%を占めるに至った。其の後、水田化による畑面積の減少、第一次大戦中の菜豆・青えんどうの急増・薄荷の急増などによって、麦類の作付けは減少していく。昭和のsy補記に国の食糧増産政策によってコムギの作付け面積は再び増加しはじめ、昭和7年には、小麦増殖五ヵ年計画がスタートすると作付けは急上昇し、昭和12年には、日清製粉北見工場が操業を開始した。
⇒関連(小麦作付け面積の推移)

小麦の収穫作業  昭和20年から27年ころまでは、戦後の食糧増産が呼ばれていた時期であり、本町でも300haを越す作付面積が維持されていた。30年代も主要作物として、比較的安定した作付けが見られたが、其の後は貿易の自由化によりアメリカ・カナダ・オーストラリアなどから、安価で良質の小麦が輸入されるようになり、国産小麦の需要は減少し作付けは激減した。
 
55年ころから、輸作体系と畑作の主要作物として麦が推進され、再び増反に転じるようになった。62年になると200ヘクタールを越すようになり、調整施設や収穫機の整備が求められ、平成5年に清川に、JAえんがるの麦乾燥施設と貯蔵施設が完成、さらに、コンバイン(3台)導入による機械化が図られた。

大麦・裸麦

 大麦の用途は、欧米ではほとんどが家畜の飼料で一部が醸造用となっているが、日本では大部分が食糧で一部が飼料である、僅かに醸造用其の他に向けられていた。大麦と裸麦は、植物学的には同種であるが、裸麦はふ皮が離れやすく穂から麦粒を脱穀するときはふ皮が同時に離れてしまうことから、この名が起こった。これに対して、大麦は皮麦ともいう。裸麦は耐寒性に弱く、大麦は強い。裸麦は日本で特に発達したもので、他国ではあまり例を見ない。大麦・裸麦の製麦加工は日本独特のもので、明治時代には丸麦・ヒキワリ麦であったものが、大正時代に入ると押し麦が現れた。
  本町での作付けは、開拓当初には主要食糧として重要な位置を占めており、大正初期まで、薄荷に告ぐ栽培面積を有していた。だが、第一次大戦中の豆ブームやその後の造田熱の高まりから、減少傾向をたどるようになり、太平洋戦争中や戦後の食糧危機には一時増反に転じたが、その後はさらに減少の一途をたどり、現在では皆無に等しい。
⇒関連(大麦その他の麦類作付面積の推移)

えん麦

 本町におけるえん麦の歴史については、その詳しい資料がないのではっきりしていないが、農耕馬の導入とともに、馬の資料としてえん麦の栽培が見られるようになったと伝えられている。
 その後、度重なる戦争により軍馬の増強が図られるようになり、軍用馬の飼料として需要が高まった。一方、物資の輸送や木材搬出などにも多数の馬が使役されており、そのためにえん麦は急速に商品化の途をたどり、一時は薄荷に次ぐ栽培面積になった時代もあった。
 戦時中は、時局作物として作付面積の上位を占めたえん麦も、終戦とともに作付けは減少したが、食糧難の時代には精白して扁平につぶし人の主食にもなった。時代が変わり、農業機械化の時代と自動車の普及から、馬の時代は終幕をもたらし、えん麦の作付けは急速に減少し微々たるものになった。
⇒関連(えん麦作付け面積の推移)

飼料作物

 農耕に馬が導入されてから、飼料は野草が主に使われ、わずかにえん麦を栽培する程度であった。昭和に入り度重なる冷害凶作に見舞われたことから、乳牛を導入する複合経営農家が増加するようになり、9年には乳牛600頭を越すまでになった。しかし、当時は1〜2頭の飼養であり、周辺の野草や稲わら・薄荷がら。豆がらなどが主な飼料であり、わざわざ飼料を栽培するということはなかった。本町で飼料が作付けされるようになったのは、12〜13年ころ、飼養頭数の多い一部の農家でサイロが設置されてからであり、冬期間の飼料として牧草やでんとコーンが栽培されたようであるが、その種類や栽培面積については不明である。⇒関連(飼料作物作付面積の推移)

 戦後は、昭和31年に集約酪農地域の指定を受けて、本町の酪農は本格的に発展することになった。飼養頭数の増加に伴い、自給飼料の増産は経営安定上に欠かせないものになり、飼料作物の作付けは、乳牛が2000頭になった44年に1000haを超え、約4000頭になった55年には2000haを突破するようになった。作付けはデントコーンと牧草が圧倒的に多い。デントコーンはサイレージとしてサイロに貯蔵されるが、近年、乾燥牧草についてはロール状にまとめ、ビニールで被覆して貯蔵されるのが一般的になった。

第七節 果樹・蔬菜などの栽培

 リンゴ

 わが国のリンゴ栽培で北限地である湧別リンゴは名声を高めたが、遠軽町におけるリンゴ栽培は明治31年、学田移民の伊豆田忠七が山形県の郷里から持参した15、6本の苗木を植えたのが始まりでる。伊豆田は苗木仕立業を営み、主に山形地方から49号・6号・14号・58号・7号などの品種の苗木を購入してリンゴの栽培と普及に努め、相当数のリンゴの樹が植えられた。
 本町のリンゴは、
大正初期から昭和5年ころまで栽培は相当盛んであり、向遠軽だけでもリンゴ園は10指を数え、釧路方面にまで出荷し主要な産物の一つであった。しかし、病虫害に対する消毒も行わず、わずかに剪定した程度で、その栽培技術も進んでいなかったことから、結局農業経済としては、収支の整わないものであった。
果実品評会(大正14年ころ)

当時の主なリンゴ園は、吉村駒緒・三浦泰次郎・吉田幸太郎・佐竹宗五郎・安江末松などで、遠軽果樹改良実行組合を組織して品評会や研究会を催して改良普及に当たってきた。また、瀬戸瀬地区にも上瀬戸瀬果樹組合(大正9年設立)と奥瀬戸瀬果樹組合(大正12年設立)があり、両組合で7000本以上のリンゴの樹が植えられていた。
 
大正13年から14年にかけてブランコ毛虫が北見管内各地に蔓延して山野の樹木はもちろん原野の草木は緑色がみられず、ついにリンゴの樹木までがその餌食となり、瞬く間にリンゴの葉は網の目のように食害されてしまった。
 昭和の時代に入り、水田耕作地が広がるに従い土質が湿潤になって、生育・結実が悪くなり、リンゴ栽培をやめる者が多くなった。
昭和5年はリンゴの大豊作であったが、翌年にリンゴの樹木に大敵の腐爛病が大発生した。この病気によって遠軽町内のリンゴ樹木は全滅に近かったが、その中で安江末松のリンゴの樹木が被害をほとんど受けなかった。安江は養鶏も営んでいたので、鶏の糞をリンゴ畑に施肥していたのが栄養になって、前年の豊作による果樹の衰弱の影響がなく、抵抗力が強くなって樹勢が衰えなかったものであったといわれている。
 
昭和19年のリンゴ栽培面積は、14haで19.3トンの収穫を上げたが、栽培面積は年々減少し、最後まで残っていた二箇所のリンゴ園は、いずれも市街地近郊という立地条件から宅地化の波に飲まれ、昭和40年安江リンゴ園、45年東海林リンゴ園が栽培を止め、これで本町のリンゴ栽培は終止符を打った。そのほかに、ブドウ・スモモ・梅・ナシなどの果樹も見られた。いずれも自家用程度に植えられたものであった。

えんがるワイン

えんがるワイン  平成2年5月2日、遠軽町がマチの特産品とするために製造元に注文していた「えんがるワイン」が製品化され、同日以降町内で販売を開始した。製造元は北海道ワイン(小樽)である。
 当初の遠軽ワインは、はすカップとコリンゴをブレンドした鮮やかな色を特徴とした赤ワインを製造販売していたが、近年はグミを主原料とした白ワインの試作製造に着手している。赤ワインの原料であるハスカップは太陽の丘えんがる公園に約2500u、コリンゴは同太陽の丘と町内とよさとの国道242号沿いの街路樹として約四百本植樹されている。白ワインの原料であるグミも太陽の丘で栽培している。両ワインともアルコール分は14l未満で一般のワインよりやや辛口であるが、くせがなく飲みやすいと評価されている。赤ワインは、1本(720ml)1000円の瓶に太陽の丘を図案化したラベルをつけ販売していたが、平成9年より滝錬太郎氏の図案化により二体に女性像をイメージしたラベルに一新された。遠軽町ではこのワインを町の特産品として販売している。

 いちご園

 平成3年8月17日、遠軽町が太陽の丘えんがる公園の活性化を促進するための一方策としてイチゴ園(観光農園)を町内丸大道路筋に開設し、本公園の夏場の誘客増加・拡大を図ることを目的として開園した。イチゴ園は栽培面積が1.3haの広さを有し、サマーベリー種・シルフィー種・北宝早生種・きたえくぼ種等の種類を28830株ほど植え込んでいる。初年度の開園は太陽の丘で開催されたグリーンヒルフェスティバルに併せたがその結果町民はもちろん、近隣町村や観光客等も多数参加し多くの好評を博した。
 
平成3年度以降の開園期間中で年度別利用者は次の通りである。

 ・平成3年度 3245名  ・平成4年度 3130名  ・平成5年度 2994名  ・平成6年度  1769名
 ・平成7年度 4125名  ・平成8年度 2560名  ・平成9年度 3302名

 このイチゴ園は毎年9月下旬まで開園を予定しているが、いちごの生育状況によって日程を変更した場合もあった。平成9年度は7月12日より10月19日(毎週月曜日が休園日)まで開園し盛会裏に終了した。

馬鈴薯(ジャガイモ)

 遠軽町における馬鈴薯は、学田移民も含め、開拓時代の主食であったとともに、戦中戦後の食糧難時代にも主食にして生活した。古くから栽培されていたこの馬鈴薯は、寒地農業の上で耐冷作物として、冷害凶作の年にも収穫皆無ということはなく、入植者たちは冷害なく馬鈴薯を耕作して、自給食糧にしていた。
 それが、第一次世界大戦の勃発で、輸出農産物としてのでんぷんの価格高騰が、豆類と同様に空前の景気をもたらしたことから、道内各地にでんぷん工場の操業が始まり、遠軽町でも、瀬戸瀬・中社名渕・西町などに相次いで澱粉工場が操業した。しかし、大戦後の反動不況で澱粉の価格が下落すると、にわかに馬鈴薯は軽視された。
⇒関連(馬鈴薯作付面積の推移)

太平洋戦争が勃発すると、馬鈴薯は主食の代用として、また、軍事用燃料(無水アルコール)の原料として栽培が奨励され、戦後の食糧難時代には、主食の代用となったことから増反が進み、24年には260haの耕作面積を有した。
 
昭和24年に入り、イモ類の統制が撤廃され、農業生産全般が復興の気運になったころ、商品としての澱粉事業に志すものが続出した。本町でもこの前後も含め澱粉工場の操業がみられ、安定作物としての原料馬鈴薯作付けが増加していった。しかし、昭和30年代後半からスノー食品関係の工場の出現により、中小澱粉工場は相次ぎ閉鎖となり、営農形態も酪農化への転換が進み、減量馬鈴薯の栽培は減少し、再び食用野菜の域にもどった。
昭和42年、清川の種子馬鈴薯耕作者が清川特用作物生産出荷組合(現在は清川馬鈴薯組合)を設立し、本州市場への男爵芋の早出しを実施、翌43年から「オホーツクいも」の銘柄で出荷し、消費地で高い評価を得た。45年以降は、契約栽培で生産地と消費者の産地直結が実現、現在はこの組合による栽培が中心で、約10ha余の作付けしかない。

 玉葱

 本町の玉ねぎの歴史は浅く、昭和43年に農業改良普及所の指導により町内清川の笹原利之・伊波守の2人が10aずつの試験圃を設置したことに始まる。この試験では育苗に失敗し、北見から苗を購入することになったが、結果はまずまずの成績であったことから、翌年から普及所、農協などが本格的普及に入り栽培者は五人となった。
 
昭和47年、玉ねぎ栽培者は27人になり、遠軽町玉ねぎ振興会を設立、翌昭和48年に路地野菜生産モデル団地の指定を受け、2ヵ年計画でトランスプランター(移植機)6台・採種ハウス10棟・トラクター1式・選別貯蔵庫1棟・選別機1っ式・貯蔵用コンテナ1000基などを導入している。⇒関連(玉ねぎ作付け面積の推移)

このような各種の条件が整備された中での玉ねぎ栽培であるが、製品は市況の影響を受けやすく、また、栽培者の中には後継者のない者などがあり、栽培戸数は年々減少しており、現在は約2haほどの耕作面積である。

アスパラガス

 北海道には、大正15年、岩内町において日本アスパラガス株式会社がアスパラガスの栽植を始めた。その後、栽培地が広まり、特に喜茂別町を中心としてその近隣町村を含めて拡大されていった。しかし、日華事変以降第二次大戦に入るや、食糧の国内需要対策の一環から栽培作物も割り当て制となり、アスパラガスはしだいに他の作物に転換するのやむなきに至った。戦後の栽培復活は昭和26年ころの食糧事情好転時からである。⇒関連(アスパラ生産実績)

 遠軽町におけるアスパラガスの栽培は、昭和15年、遠軽町農会の奨励により栽植したのが始まりで、各地区に集荷場を設けアスパラガス会社の事務所もできたが、戦時体制下の食糧増産優先のためすべて他の作物に転換したため、収穫されないまま廃耕になった。
 戦後のアスパラガス栽培は、
昭和32年に農協と北日本缶詰株式会社(現北海道あけぼの食品株式会社)との契約により始まったもので、定植3年後の35年から収穫が行われた。しかし、収穫の多忙なことはあらかじめ予測されていたが、いざ直面してみると、不慣れなせいもあって終日かかりっきりの状況が続き、しばらく作付面積は伸び悩んだ。
 
46年に農業振興長期計画を策定し、畑作ではアスパラガスが奨励されたが、生食用(グリーン)での収穫も奨励されたことから、一挙に作付け面積を伸ばした。ホワイトはあけぼの食品に、グリーンは「オホーツクアスパラガス」として札幌・東京の市場に出荷して好評を博し、55年には生産額1億円を突破した。
 好調に維持されてきたアスパラガスの生産も、ここ数年、労働力不足や耕作者の高齢化などから、減少の一途をたどっている。

野菜類

 遠軽町で販売を目的に野菜を作ったのは、昭和7年星野善吉が二条通北五丁目で副業として野菜と苗つくりを始めたのが最初といわれている。当時は、農家はともかく市街地に住むものも自給自足の時代であり、極まれに農家が余分な野菜を町に出て売り歩く姿が見られた程度であった。
 
昭和16年に、下社名渕・学田・向遠軽・上遠軽の農家50余戸により「蔬菜生産組合」が設立され、野菜の改良発達を目的としたが、実際には当時の社会情勢から、資材や肥料の入手にウエイトが置かれたようである。
 この組合は
29年に発展的に解消し「そ菜生産出荷組合」と改称、市場調査に力をいれ共同出荷を目指したがうまく機能せず、本格的な共同出荷ができるようになったのは、紋別の市場を対象とした38年ころからであった。
 
30年後半になると、農業用ビニールやポリエチレンによる施設栽培が普及し、野菜栽培は一大転換期を迎えることになり、野菜専業の農家も現れてきたが、大消費地向けに産地化するまでには至らず、主として地元市場を中心に出荷が続けられている。
 
50年代後半ころから消費者の健康志向が高まり、品質や低農薬などに関心が持たれ、安全な野菜作りが求められるようになった。また、近年食生活の新しい傾向として、冷凍食品が台頭するするようになり、農産物の分野にも及んできた。本町でも、農産物の付加価値を高める上での有効な手段として、平成3年に「遠軽農業振興公社」が設立され、スイートコーン・かぼちゃ・アスパラガス・枝豆などの冷凍野菜の製造販売を行っている。(別記)
 なお、消費動向に左右されながら、本町でも多くの野菜が栽培されているが、契約栽培が主力になっていることから、種類別の把握は困難だが、
平成8年の主な作物としては、スイートコーン100ha・かぼちゃ50ha・果菜、葉菜、根菜類で約30haの作付けになっている。

遠軽農業技術センター  遠軽町字学田

遠軽町農業技術センター(平成2年12月)  遠軽町の農業は、オホーツク海型気候の影響を受ける極めて厳しい自然条件のなかで、酪農・畑作の小麦・ビート・アスパラガス等を基幹作物として振興してきたが経営基盤が小さい。そのため、総合的営農技術の開発指導、生産組織づくり、経営指導等を促進し、農業全体の生産性向上、効率化を図るための中核的施設として、平成元年に「遠軽町農業技術センター」が設置された。

 ▼企画指導室=農業新技術の研究開発、農業経営指導、地域生産組織の育成指導等を、農業関係機関職員からなる運営委員会の協議を経て総合的に行う。
 ▼研修室=各種研修、講習会及び農業関係所会議の開催。
 ▼土壌診断室=地力の維持増進のため、PH、緩衝曲線、態りん酸置換性塩基(K20・Ca0・Mg0)、有効りん酸吸収係数、塩基置換容量、銅・亜鉛其の他の微量要素の測定を行い、施肥計画の策定指導を行う。
 ▼食品加工室=自給生産物の有効利用(缶詰、ジュース、豆腐、ソーセージ等)、食生活の改善と地域特産物の開発を行う。
 ▼培養室=アスパラガス優良雄株の増殖、ウイルスフリー苗の増殖を行い、作付け規模の拡大、老朽化したアスパラガスの更新を進め、増収を図ることによって、畑作経営の安定を目指す。
 ▼付帯施設=馴化棟1棟・加温ハウス1棟・格納庫1棟

 平成2年4月からの正式オープンと同時に専従の職員が配置され、バイオ技術を使ったアスパラの優良株作りを開始、老朽化したアスパラガスの更新が勧められている。さらに食品加工質では、地場産品を利用した特産品の開発に取り組んでおり、現在農協婦人部が中心となってトマトジュースが製品化され、地元で販売されている。

 遠軽農業振興公社  遠軽町字学田 
 農産物の自由化、主要畑作物の価格低迷など、農業経営の厳しい現状に、何とか活路を見出すための対策として、地元農産物の付加価値を高めることを目的として、平成3年4月に(株)遠軽農業振興公社を設立し、近年市場が拡大しつつある冷凍食品を中心に製造と販売を行っている。
▼資本金 3000万円(遠軽町52%・農協37%・(株)小池冷凍定温倉庫11%)
▼施設  事務所・加工処理工場1棟 約980u 冷蔵庫1棟 約149u)

第八節  農薬と肥料

 農薬

 農薬には、殺虫剤・殺菌剤・除草剤・成長を促進するホルモン剤などがある。
 日本の農業を発展させてきた理由に品種改良・飼養管理などの技術革新・化学肥料や農機具の発達など多くの要因が挙げられるが、農薬の普及もその大きな要因の一つである。日本で農薬が最初に用いられたのは1670年頃、ウンカ(稲の害虫)の駆除に鯨油を使用したのが最初とされている。それまでの病虫害の被害は、水害・干害などと同様に天災の一部として考えられていた。
 明治時代に入って農業部門に欧米から新しい技術や知識が導入され、砒素剤や除虫菊が殺菌剤や殺虫剤として輸入され、飼養を開始した。
明治30年、ボルドー液の使用、そして、末期には石灰硫黄合剤、松脂合剤、二硫化炭素などが出現した。
 昭和に入って農薬は全国に普及し、国内生産も活発化して、一部は輸出するまでになったが、日華事変(昭和12年)の勃発で輸入物資が規制され、原材料が不足し国内需要も満たせなくなったため、代用農薬の開発も進んだ。
 本町での農薬の普及状況を明らかにする資料はないが、上社名渕農事実行組合の昭和10年度実行方法決議録に、次の一文を見ることが出来る。

 噴霧器係オ青田専次郎ト決シ就任、本器使用料一日ニ付キ金拾銭、但シ組合員外使用料金弐拾銭ト決ス。

 当時本町でしようされた農薬は、主に砒酸鉛と硫酸銅と生石灰を調合したボルドー合剤などの水溶液を、手押し式の背負噴霧器で馬鈴薯・甜菜・水稲・果樹などの少数の作物に散布していた。
 
昭和20年の敗戦は、日本に大きな変革をもたらしたが、農薬の分野も同様であった。戦後の食糧不足に加えて、ノミ・シラミの蔓延している日本中に、進駐軍は粉剤を真っ白になるほど振り撒いて歩いた。本町でも児童生徒にまぶすように振り撒いたが、使用されたのはDDT粉剤で、抜群の効果を上げた。このため、家庭でもノミ・シラミの駆除に広く使用されたが、22年からは農薬として、作物の害虫駆除に使われるようになった。
背負いの噴霧器
スプレーヤーによる消毒作業  23年に「農薬取締法」を制定、25年には食糧増産の一環として、積極的に病害虫駆除を推進するため「植物防疫法」を制定した。こうして新しい農薬の輸入や、国内での研究開発が進み、急速に普及していった。
 このように、多数の農薬が開発普及されて農業生産に大きな影響をもたらしたが、その反面、農薬の毒性は目的以外にも作用し、かつてはどこの谷川にも生息していたザリガニや水田のタニシなどが死滅し、小川のドジョウや山野の昆虫までがめっきり減少するなど、植物の世界だけでなく動物の世界にも影響を及ぼし始めた。
 
昭和40年代に入り、農薬の残留性が問題化し有機水銀剤の製造が中止され、昭和45年にDDT・BHC・ドリン剤の使用が全面禁止とんたった。
 平成の時代に入り、消費者は一段と安全な食品を求めるようになり、農薬の使用を抑えた無農薬栽培・有機栽培などに深い関心が寄せられるようになった。

 肥料

 農業生産の根幹は地力の維持増進であるが、開拓初期の時代は土壌が肥えていて作物が成長しすぎるほどであった。それだけに施肥のことなど全く考える必要がなかった。それは原生林が長い歳月を経て自然の落葉などを繰り返し蓄積し、豊かな腐植土を形成していたからである。したがって開拓農民は無比量での耕作を長い間続けた。しかし、こうした経過は知らず知らずの間に地力の減退を招き、略奪農法となっていった。
 金で買う「金肥」と呼ばれる肥料はより農産物の効果的な生産増の安定剤として、「過燐酸石灰」「硫酸アンモニア」「石灰窒素」「硫酸加里」等を市場に流通させた。政府も増産政策として金肥施用を奨励し、大正時代初期から金肥がしだいに全国の農家に普及するようになった。
 本町で金肥の過燐酸石灰が使われたのは、大正2年前後で、薄荷栽培に初めて用いられた。薄荷の葉が枯れて落ちることから、農業試験場に問い合わせ土壌の検査をした結果、「土壌が酸性化しているので過燐酸石灰を施すように」とのことから、初めて使用したのである。その当時は、肥料効果などについては無知に近く、どの作物にどれだけ施したら有効であるかという判断などには程遠いものであった。開墾以来、長い間の略奪的農法であったので、地力の減退は一目でわかるようになり、ようやく農民にもその実態を知るようになった。しかし、昭和初期の打ち続く冷害凶作は、経営基盤の弱い農民を惨憺とした嵐の中に巻き込み、金肥を使うゆとりなどは考えられなく、一般に普及したのは
昭和10年以降のことである。
 戦後、食糧増産の要請に応じるため、化学肥料の増産が必要になり、肥料工業は急速に発展し、各農地の地力に応じた作物ごとの配合肥料、複合肥料が生産され多肥多収の農業に変わった。
 
昭和30年代に入り、農業生産の基礎になるものは地力維持増進であり、そのためには金肥でなく有機質肥料の施用が作物の収穫を増進する重要なことを再認識した。有機質肥料生産のために堆肥・厩肥などの増肥奨励が行われた。堆肥の材料は農産物の収穫後の藁や葉くずをはじめ周辺の野草やササなどを刈り集め、堆肥場に積み上げ厩肥とまぜて腐植させるもので、たゆみない努力が求められた。一方、緑肥の増産も農業経営の中に取り入られた。コンモン・ベッチ・クロバーなどの緑肥作物が栽培され、畑の耕起時にしきこむ方法で地力維持増進が図られるようになった。

第九節 戦後の開拓事業 

 戦災者の集団入植

 太平洋戦争の末期には、日本の主要都市に対する空襲が激しくなり、家屋の焼失や産業基盤の破壊などで、戦災者は830万人を超えるとともに、食糧事情も最悪の状態に陥った。こうした事態から政府は、昭和20年3月「都市疎開者の就農に関する緊急措置要綱」を閣議決定、これを受けて5月に「北海道疎開者戦力化実施要綱」が決まり、北海道にこれら主要都市の戦災者、5万戸、20万人を送り込む集団帰農計画が立てられた。このため北海道も直ちに「北海道集団帰農者受入要綱」を策定し、各市町村に受入窓口が設けられた。こうした戦災者の集団入植は7月から始まり、終戦になった8月以降にも続けられ、約3400戸、17000人が道内各地に入植し、その後の「戦後緊急開拓事業」に引き継がれていった。
 本町への第一陣は大阪からの45世帯で、8月12日に大阪をたち、秋田駅で終戦を知らされたが、いまさら大阪に帰ることもできず、遠軽の駅頭に降り立ったのは8月18日のことであったと言われている。

緊急開拓事業

 終戦とともに復員者や海外引揚者で国内人口は急増し、食糧不足は死活問題として、国の緊急課題となった。このため政府は20年11月「緊急開拓実施要綱」を閣議決定、食糧の自給と復員者・海外引揚者・軍需工場離職者などの帰農促進を計画し、既に行っていた戦災者の集団帰農を含めた戦後開拓の幕開けとなった。
  入植者の定着を容易にするため、実施要綱には住宅・交通・衛生・教育等の施設整備が優先的に行われることになっていたが、あまりにも急速にこの事業が進められたことや、敗戦という未曾有の事態から、まったく受入体勢が整わない中での入植であった。しかも、人口収容に大きな目標を置いたことから、当時の入植者は農業に縁のなかった都市戦災者・海外引揚者・復員軍人などが多く、特に気候・立地条件に恵まれない本道の開拓は、予想以上に困難で苦しいものとなり、開拓を断念し次々と離農していった。
 本町の入植地も傾斜地や痩せ地が多く、新社名渕・新遠軽という新しい集落なども誕生したが、満足な道路さえない遠隔地であったため、一年もたたないうちに逃げ出す者や脱落するものが相次いだ。
なお、25年までの各地区の入植戸数は次の通りである。
⇒関連(入植戸数)

 入植条件の悪さや受入態勢の不備から、24年時点で約4割が離農したといわれており、24年から離農跡地対策として、離農跡地の再配分と既存農家の二、三男の受入という方針転換が図られた。これにより本町でも、残存入植者への再配分を行ったほか、地元農家の二、三男の入植が見られるようになった。
 しかし朝鮮動乱(
25年)による特需景気に伴い、工業生産への労働力吸収などから離農は続き、その後の経済成長を契機にますます離農は加速した。本町の入植は、33年ころで終わったと考えられるが、35年現在で146戸の入植のうち80%が離農という、極めて低い定着率であった。一方、残った入植者も生産性の上がらない農地を抱えて負債が増加し、土地を売っても負債整理ができず、離農すら思うに任せない状況に置かれていた。開拓地の多くが同じ状況にあったことから、国は35年から離農助成制度を設け、開拓農家の整理に乗り出した。
 本町でもこの制度を利用して、新社名渕の全戸(9戸)の離農を計画し、
37年の収穫をまって移転を完了、跡地は町が採草地として取得している。これは明らかに戦後開拓行政の打ち切りを意図したものであり、さらに、45年には「開拓者負債対策」や「開拓農業共同組合組織整理」が実施され、困難を伴った戦後開拓行政に終止符が打たれた。

滝の沢の開拓(「豊里郷土史」より)

 滝ノ沢開拓は、昭和20年秋に大阪からの移住者9戸が入植し、約70haの土地が与えられ開墾に着手した。当時の入植者は鈴木義夫・敷島久子・板橋太郎・九鬼安太郎・菅谷隆行・梅北馨・久積長吉・山本一男・山田光吉の9戸で、一年後には荻原某も加わった。
 この開拓者たちは、住居を生田原川沿いに(当時の
岸本俊二宅付近)集団で建築し、ここから各自の農地の開墾に通った。この家屋の建築に当たっては、当時の地区改称であった東海林新三郎の呼びかけによって、地区住民多数の好意ある資材や労力奉仕を受けながら、開拓地から切り出した丸太を使って、掘建小屋を集団的に建てて住居を確保した。しかし、開墾は容易なものではなかった。自分たちの食糧を得るにも困難を極めた。農業には経験がなくさらに、温暖な気候の大阪出身だけに、長い厳冬の冬期間における粗末な住居での生活は大変なものであった。土地は急傾斜地が多く、樹木が生い茂り、土質も悪く、さらに人間の手でひと鍬ひと鍬切り拓く開墾は極めて困難なものであった。
 日常の生活資金は、耕地を開くための開墾補助金を生活費に回し生計をたてていたようであった。
昭和23年ごろよりこの開拓に見切りをつけて離農者が出始めた。昭和31年ごろには、最初の入植者では板橋太郎が残るのみとなり、ほかはみな転業や離農をしてしまった。昭和46年ころ、板橋太郎も老齢のため離農した。現在滝ノ沢の開拓地は豊里地域の既存農家に所有権が売買され、採草地として利用されている。

 農業災害

 気象観測

 気象観測の始まりは北海道が最も古く、明治5年(1872)、英国人ブリキストンの示唆で官設の気象観測の必要性が採用され「函館気象測量所」が設けられた。これが日本最初の気象観測である。
 
明治8年(1875)6月1日、東京気象台が気象観測を開始している。
 
明治22年(1889)、網走・釧路・帯広に三等測候所が開設されると、本道特有の気象状況を知ることができるようになった。稲作の北限地帯にある北海道は、常に冷害の危険があり、その多くはオホーツク海高気圧の影響にあることがわかった。明治40年(1907)4月発行の官報には、

「寒潮面を通過しきたる北東または東風は、ために冷涼となりて陸地に襲来し、もって陸地の温度を低下し、太平洋温暖なる海面より来る風は海岸近き冷気に触れて細霧を生じ、これを陸地に吹送す」

 と冷害凶作になる原因の調査報告と警告を記している。この北東の風を昔から「やませ」あるいは「餓死風」または「凶作風」と呼ばれている。
 農業災害と呼ばれるものには冷害・霜害・風害・干害・こう害(イナゴ、ばった)・降雹(こうばく)(ひょう・あられ)・落雷・雪害・其の他の異常気象などが上げられている。その中で特徴的な冷害・霜害・水害・風害・干害を中心にして歴史を振り返ってみる。

 冷害による被害  全道的にそして遠軽地方を遅い被害の甚大であった年として、湧別原野に開拓の鍬が下ろされてからは、明治30年・35年・36年・38年が記録されている。その中で、30年の冷害は春から気温が低く、作物の生育は不良で農作物は収穫皆無という、まれにみる凶作となった。
 
水害による被害  明治31年9月大正11年8月は大雨に遭遇し、湧別川・生田原川が氾濫し、増水した濁流は開墾したばかりの畑地のほとんどを泥沼と化してしまった。
 
霜害による被害  大正元年の作物収穫不良(冷害)に続き、翌2年は大霜害のため、全道的な凶作となった。大正11年は6月下旬の大霜害に続いて8月25日の水害に遭遇し、大きな被害を受けた。
 
干害による被害  大正15年は7月6日から9月10日まで降雨がほとんどなく、雨不足のため畑地は完全に乾燥して作物はもちろん、牧草までも枯死する被害を受け大凶作となった。この状況は遠軽地域だけでなく全道的な被害であった。
 風害による被害  強風による被害として春の農耕期、特に播種期の襲来は畑地の表土を飛び散らすので、せっかく発芽したばかりの作物は裸にされ枯死してしまうが、遠軽でのこの被害は記録されていない。警戒するのは秋の風害として210日(立春から起算して)から220日にかけて襲来する台風であった。せっかく実った農作物はもちろん、果樹や家畜用飼料のデントコーンなども一夜にしてなぎ倒されるので、実りの秋の大きな夢は藻屑と消えることもあった。
 
昭和29年9月26日、全道的に襲った台風15号は強力な暴風雨として畑地の作物や周囲の山林、そして連絡船や漁船などにも甚大な被害を与えた。遠軽町でも家屋の倒壊や収穫間近の農作物に大きな被害を与えた。

 農村負債整理組合法

 昭和8年3月、政府は農村負債整理組合法を定め、貧困にあえぐ農村の生活維持工場に努めた。それは昭和6〜7年と打ち続いた冷害による凶作と社会経済の強行等の重圧によって、農民はその日の生活にも窮迫し、結果的に自作農から小作農に転落する農民も出た。小作料や肥料代、生活費などの負債は増え続ける一方で、これの延滞金に対する高利をつけられた小作人の窮乏はいよいよ大きくなり、生活意欲を失い、ただ破局を待つばかりの者さえ生ずるようになった。この状況を見かねた政府は農村の経済更生を図り、隣保互助の精神によって再起を促すための法律の公布となった。
 この法律の定めを受けて、本町では農村経済更生計画の推進を主として各集落ごとに座談会または説明会を開き、窮乏にあえぐ農民に農村負債整理法公布の趣旨の徹底を図った。

 社名渕負債整理組合

 昭和11年1月、農村負債整理組合法の公布を受けて、社名渕地区は6つの農事実行組合をもとに社名渕負債整理組合を結成し、同月道庁に設立の申請を行った結果、組合設立の許可を受けた。48人の組合員で総会を開催し、組合長に社名渕の山田真二を、業務担当の理事として川口福市を選出して事業計画を決め、組合としての活動を開始した。
組合ではまず事業の根本調査、生活安定のための予算と生活の確立、経済更生計画の基本方針として、全組合員の産業組合加入を勧めて産業組合とのつながりを密にし、特別融資金の借り入れなどに主力を注ぐ一方、負債条件緩和の交渉を精力的に行った。その結果、予期以上の理解者を得て、
昭和12年12月までは2300円、翌13年には3200円返済の調停を行ったが、特別融通資金の貸付が決まらないため、やむなく12年に日歩3銭の利息で遠軽農業会から2300円を借り入れた。この返済と13年度分支払い分3200円を負債整理事業のつなぎ資金として13年12月、道庁の認可を得て 北連から借り入れ、それぞれの債権者に返済し、ようやく約束を果たした。
 こうして
13年には12300円の特別融資金を受けたり、14年度にはさらに7000円の借入を行い、最終的に組合員の多年にわたる負債の束縛から脱することができた。やがて日華事変から太平洋戦争を経て昭和26年、融資金などすべての償還を終了し、この組合の使命を果たして解散した。

 郷倉

 昭和初期から打ち続く冷害凶作によって農民の生活はますます窮迫し、その年の種もみにも事欠き、営農も危ぶまれる時代が経過した。
 これに対処するため国は、昭和9年に「凶作地に対する政府所有米穀の臨時公布に関する法律」を公布し、各農村地域に政府所有の米穀を保管する「郷倉」を設置し米等を貯蔵する方法を定めた。
 本町では
10年7月、旧役場(大通南4丁目)付近に82uの木造平屋建ての郷倉を建設し、米穀を貯蔵保管した。郷倉で保管した米穀は主として種もみ用として保管し、凶作時の翌年にはそれを水田農家に貸付し、または交付する働きをした。

 救農土木事業

 昭和初期からの打ち続く冷害凶作に対して、政府はこれら貧困にあえぐ農民を救う施策として、救農土木事業を計画した。この事業は昭和の初期から実施され、戦後もなお継続してきた。また特別災害自作農維持資金の貸付や町民税、国民健康保険税の減免、小中学校児童に対する教育扶助などの救済制度が国や町段階で実施された。
 終戦後の農業災害は
昭和28年の二分作、翌年と31年の大凶作、39年の四分作、40、41年の一分作、46年の大凶作と相次ぐ打撃によって農家経済は深刻な危機に陥り、これにも救農土木事業が実施された。
救農土木事業(昭和34年頃)

 平成5年の凶作

 低温や長雨により戦後最悪の凶作となり、特に、主食であるコメの大凶作については国民に大きな不安を与えた。北海道統計調査事務所が発表した稲作の状況によると、7月中旬以降の低温と日照不足によって稲の受精障害が起こり、実入りのない不稔粒が著しく発生したのが原因であると発表した。低温によって生ずるイモチ病も広い範囲で発生し、水稲農家は大きな打撃を受けた。
 政府は、大幅な不足が確実となったコメの安定供給作として、実態を把握しながら緊急の対策を講じることにした。
 まず被災農家の救済策として、被害程度に応じた所得税の減免や納税期間の延長、さらに減反緩和といった措置を講じることなどを定め各関係機関に通達した。道としてもこれらの方策を受けて具体的な救済措置を講じた。
 政府はコメの緊急輸入を決め、タイやアメリカなどに緊急輸入について打診を開始した。
 その結果、カリフォルニア米・タイ米・中国米・オーストラリア米などが決定し、早速輸入が開始された。しかし消費者である国民の間からは、これら輸入米の臭い・遺物の混入・安全性などの面で不評であった。
一方、国内においてはコメの便乗値上げを警戒し、各都道府県の食糧事務所を通じて監視体制の強化を指示した。
 遠軽町内のコメ販売店にも入荷が例年の半分以下ということで、店頭に並ぶコメの量が激減し、結果的に販売制限という厳しい現実に直面した。したがって顧客が予約した消費者以外は販売できないケースが生じ、年末から年始の需要期に向かっては外米とのブレンドで急場をしのいだ。

第十一節 農業関係団体

 産業組合法

 明治33年に「産業組合法」が公布され、農産物の販売(販売事業)・生産資材や生活物資の供給(購買事業)・金融(信用事業)・農業関連施設の共同利用(利用事業)などの経済活動を目的とした農民団体の育成が進められることになり、農民の利益が擁護される道が開かれた。
 湧別地方における産業組合の成立は、開拓が遅れたこともあって、
大正3年に設立した「無限責任湧別信用販売組合」を皮切りに美幌・野付牛・端野などで次々に組合が設立した。

 無限責任湧別信用組合

 大正3年8月設立、組合の事務所を上湧別村字遠軽市街地本通り58番地(現南町1丁目)に設置した。当時は上湧別村であった現在の遠軽町と生田原町を地域として、32名の設立者によって発足した。
 組合長には古田亦四郎、理事に菅井専助・吉田舛蔵、幹事に中沢勝・竹田万次郎、信用評定委員には加藤与四郎、角谷栄政。佐藤金吾・渡辺八蔵・大江長次が専任され、加入組合委員に対する資金の貸付や貯金の受入などの信用事業、麦類・豆類・薄荷・澱粉のほか、鶏卵等の受託を受けた販売事業を中心として事業を執行していた。この組合は、
大正13年8月14日解散した。

 無限責任学田信用購買販売組合

 大正3年12月設立、遠軽市街地中通2番地(現岩見通り南3丁目)に事務所を構えた。設立当時の役員、理事に信太寿之・三浦藤治朗・井上森太郎。幹事として青木代太・三沢恒助の各氏が就任した。
 この組合は、学田一円を区域として事業を行ったが、
大正13年12月23日解散した。

 有限責任遠軽酪農販売組合

 昭和2年5月設立、向遠軽地域の菅井専助・柏倉貞二・小山田利七ほか数名が熟議の結果、組合員74名を以って設立した。
 役員・組合長 
菅井専助  副組合長 小山田利七  ・専務理事 柏倉貞二を選出した。
 区域 遠軽市街地・学田・向遠軽・向野上・下生田原東1銭46号以北とした。
 組合の設立は、乳牛の急速な増加により、自家消費を上回る牛乳の生産となり、この余乳の処理が動機になったもので、集配所を向遠軽地域(現在の遠軽高等学校近く)に設立、デラバル式分離機其の他付属品を設備し、クリームに分離して北見の森永工場、名寄の製酪工場への販売業務を開始した。

 有限責任遠軽信用販売購買利用組合

 昭和4年1月設立、有限責任遠軽酪農販売組合の名称・目的・区域を変更して「有限責任遠軽信用販売利用組合」を設立した。 ⇒関連(目的・区域変更・ほか)

打ち続く凶作や農村恐慌の中での組合運営は容易ではなく、組織強化のため、社名渕の組合を統合しようという声が強くなり、7年1月の総会で合併を決議した。この合併により組合員数は348名となり、事業量が拡大したことから、岩見通り南2丁目(現農協)に土地を求め、仮事務所を開設した。12年に新しい事務所や倉庫等が完成したが、18年に農業団体法が公布され「遠軽町農業会」設立のため19年1月に解散した。

 有限責任社名渕信用販売購買組合

 昭和5年2月設立、家庭学校とその小作人を中心とした申し合わせ組合であった平和鶏卵貯金組合(大正10年設立)と平和飼牛組合(大正14年設立)を合併し産業組合法に基づく組合に変更し「有限責任社名渕信用販売購買組合」を設立した。⇒関連(細部内容)

 この組合員は、農村改良の理想を掲げ、家庭学校が中心になって運営されてきたが、「疲弊しきった農村の救済は一民間社会事業施設にとって荷が重過ぎる」として、7年1月の総会で遠軽に合併することを決議した。

 湧別村農会

 明治32年「帝国農会法」が公布され、それまで任意団体で活動していた農談会や農事会など農業に係わる諸団体が「農会」として法律のもとでの農業関係団体として活動することになった。したがって農会は、政府の農業政策の下部組織的期のうと性格を持った指導機関としての組織となった。
 湧別村農会設立にあたっては、当時指導的立場にあった
和田麟吉・本間省三・西沢収柵・信太寿之・渡辺精司・横沢金次郎など14名が奔走し33年9月創立、初代会長には時の戸長岩橋佐吉が兼職した。
 農会の組織はできたが当初は活動内容についての模索が続いた。技術的な営農指導よりも、菜種や薄荷の共同販売や種牡馬の貸付をうけた 馬産改良の促進など流通対策的な活動であった。
 農会設立当時における加入構成は農業経営者の任意加入であったが、
明治38年に農会法が改正されて、農会には農業経営者全員の強制加入が義務付けられた。
 
明治42年になると事業は着実に進展をたどるようになり、優良種苗の配布・農業雑誌や新聞などの輪読奨励・水稲試作物の設置補助・堆肥舎築造奨励金交付など各種農事振興策が展開された。

 遠軽村農会

 大正8年、上湧別村から分村した遠軽村は新しい遠軽村農会を組織し、会長には村長の宮城昌章が就任した。大正12年、新しい「農会法」が公布され会費の強制徴収制度が確立したので、農会の財政が安定し体質が強化されていった。第一次大戦後の農村不況、さらに続いた冷害凶作など農家経済の極度な不振が長期にわたり、農会はそれまでの営農指導の域にとどまらず、農村経済の建て直しのために農家の団結を奨め、生産物の共同販売・肥料の共同購入。産業組合設立の推進策など主導的な役割を果たすことになった。
 
昭和15年、農会法の一部改正があって、農会の新たな業務として農業統制に関する事項が加えられた。
 翌
16年に農地作付け統制規則・農業生産統制令など一連の法が施行され、その統制権限を農会の業務として加わってきた。緊迫する戦時情勢のもと、農家個々の営農指導は希薄となり、国家的要請にこたえるための作付け統制・農機具の共同利用・生産資材の割り当て。食糧供出・軍馬買上げなどに主力が置かれた。当時の農会はすべてにおいて国の官僚的統制機関の意味合いが強く働いた時代であった。
 
昭和18年、政府は「農業団体法」を公布した。それは農業団体の一元化を図る法律の制定であった。翌19年2月農会は解散を命じられ、それまで取り組んできた農会の業務を農業会に引き継いで解散した。

 遠軽町農業会

 昭和19年2月、遠軽町農業会が発足した。其の先昭和18年3月、戦時中の政治的統制が進行する中で農業団体にも規制がしかれ、昭和19年1月、農業団体法の施行は農会及び産業組合に対し「解散」を指令した。このことによって遠軽町ではそれまでの指導機関であった農会と経済団体であった産業組合を統合して「遠軽町農業会」を設立し、初代会長に飯村六衛が就任した。
 遠軽町農業会は、農会や産業組合の財産等を引き継いでの出発であったが、太平洋戦争が激化の状態のときであったので、農業団体本来の活動にはおかまいなしに、ただひたすら戦時下における上位下達の農政に徹してことが運ばれた。
 食糧作物をはじめとする時局作物の生産割当てと供出督励を字句に、営農物資の配給、学生や生徒の援農労務受入、針葉樹油採取、木炭の増産、イラクサ採集、軍用ウサギの飼育供出、などの督励と管理体制の時代であった。
 
昭和20年8月、太平洋戦争は敗戦のうちに終結した。国内は政治も経済も大混乱の中で、物価の暴騰と品不足などで統制が完全に乱れ、農業会もこの社会の荒波の中で会の経営は困難を極めたが、役員たちは戦後の農村経済の建て直しのために多大の奮闘を繰り返した。
 
昭和22年11月、農業共同組合法が公布され、同年、管理体制の中での活動であった遠軽町農業会は解散した。

 遠軽村農事実行組合

 大正7年、農業経営に係わる指導上の必要性から道庁・同農会などの奨励に従い、遠軽村も農事実行組合の組織化を勧めたが、其の当時は一般農家の関心は薄く組合設立には難しい現実があった。
 
大正10年、各地域に少人数ずつではあったが組合が設立され、地域ごとの規約を定めて活動に入った。
 
昭和4年、道の新たな指導と組織強化に努めた結果、産業組合や農会の補助機関として農業経営改善・農家家計向上・農村社会改良等に関すrうことなど、仲間同士が共同で行う組織として活発な活動が行われた。
 
昭和5年、町内で43組の組合を設立し1000人余の組合員を数えた。この組合は地域内での精神的な結びつきや幾多の連絡事項、農事の改良発展等、また日常生活の面など、果たしてきた役割は見逃すことはできないが、戦時下にあっては、国策による行政機関や農業団体の末端機関として、重要な役割を果たしてきた。
 この組織も太平洋戦争の終結とともに、農業会や戦時体制化に組織されていた農業関係の諸団体とともに解散の運びとなったが、その後は新しく組織された農業共同組合の傘下になり、任意組合として再生した。

 農業共同組合

 昭和20年12月、連合軍総司令部(GHQ)は「農民会法令」を発した。それまでの農業会などの組織は管理体制化の中で国家的統制機関の意味合いが強かったことに着目し、農民を解放し農民自身による農民のための経済・文化の発展に寄与する「農業共同組合」設立などを含む、新しい農業政策の支持となった。
 
昭和22年8月、政府はGHQの指示を受けて「農業共同組合法案」を国会に提案し、同年11月「農業共同組合法」と「農業団体の整備に関する法律」が公布された。
 遠軽町でも、農業共同組合設立の具体的な手続きと作業に着手した。当初は、遠軽町一円を区域とする農業共同組合の設立を前提としたが、瀬戸瀬地区に単独の組合を設立しようとする機運が動き出した。
 
昭和23年1月5日、遠軽町農協と瀬戸瀬農協の設立発起人会が同日に行われた。
 
昭和23年1月10日、遠軽町農業共同組合設立のための遠軽町農民大会が遠軽高等女学校で開催された。
 この席で、町内の農民組織の一本化が本町農業の発展上最も望ましいことは認識されたが、二つの農協設立の機運を消し去ることは出来なく、遠軽町に遠軽・瀬戸瀬の二つの農業共同組合が設立されることになった。

遠軽町農業共同組合

遠軽町農業協同組合旧庁舎(昭和12年設立)  昭和23年4月27日、設立の認可を受けて「遠軽町農業共同組合」が誕生した。
主たる事務所はそれまでの農業会本所とし、従たる事務所は社名渕支所と、いずれも農業会の資産をそっくり受け継ぐこととなった。

瀬戸瀬農業共同組合

 昭和23年4月6日、設立認可を受けて「瀬戸瀬農業共同組合」が誕生した。
事務所はそれまでの遠軽町農業会瀬戸瀬支所の資産を継承して設置した

 農業共同組合の活動

 昭和26年4月、農協再建整備法が制定された。これは、農協の経済的な建て直しに係わる債権整備のためのものであった。
 この時期になると、朝鮮動乱の影響による国内の特需景気によって、道内の農産物の価格も上昇しはじめ、好況の兆しを迎えた。食糧事情も徐々に緩和されてきた。同年3月には雑穀、6月には麦類の統制が解除になった。しかし、農協の収支の面では年ごとに損失金が累積される不振が続き、一方、組合員は農業手形による安易な融資に頼りすぎて、農民個々の経済は一向に好転の兆しを見ることが出来なかった。

 遠軽・瀬戸瀬両農協の合併

 昭和26年5月、遠軽町農協第三回通常総会において遠軽町農協と瀬戸瀬農協の合併問題が緊急動機として提案された。
 
昭和28年に入り、両農協の合併問題が正式な議題として具体的に話し合われた。
 
同年8月25日午前9時、遠軽・瀬戸瀬両農協はそれぞれ臨時総会を開催し、最終的議題として話し合った。

 ・遠軽町農協は遠軽町公民館(西町1丁目旧遠軽高等女学校講堂)にて合併に係わる事務局の提案事項を可決した。
 ・瀬戸瀬農協は瀬戸瀬青年会館で開催、遠軽町農協との合併について瀬戸瀬農協事務局提案どおり可決した。

 昭和28年8月25日午後2時、遠軽町公民館にて合併にかかわる総会が開催された。組合員数867名中648名が出席して、原案どおり合併を議決し、次の役員を選出した。

 瀬戸瀬農協の合併にかかわり理由を整理すると次のような文章になる。

  農村は終戦を契機としてその民主化及び経済的、社会的、文化的地位の向上をひたすら農協の運営に期待して今日に至ったが、社会的経済環境はいよいよ農村経済の窮迫を予想させ、また農協運営の方法等においても相当の反省を必要とする状況となっている。農民生活の安定柵には農業者の大同団結のみがすべてに対抗する最良の策であり、かつ農民負担の軽減を図り経済力の向上に期待するために両組合があいより合併するものである。

 昭和28年8月25日、遠軽町一円を地域とする遠軽町農業共同組合が誕生した。この年は昭和20年以来の大凶作に見舞われた年であり、前途多難な農協の債権を背負った船出となった。⇒関連(遠軽町農協の主な動き) 遠軽町農業協同組合 現庁舎

 遠軽町農協青年部

 昭和29年1月6日設立する。
 組織活動の概要 
昭和28年8月、遠軽町農協と瀬戸瀬農協の合併により旧遠軽町農民同盟青年部及び旧瀬戸瀬農協青年部を解散し、新たに遠軽町農協青年部が結成された。初代部長に小林清が選任された。⇒関連(青年部の主な動き)

 遠軽町農協婦人部

 昭和20年、太平洋戦争敗戦による終結を境にして、多くの日本人はそれまでの軍国化から解放され民主化を求めた。その反面には戦後の著しい経済変動などにより、農村にも極度は不安におびえた時代でもあった。
 食糧事情の極端な窮迫とあいまって農産物のヤミ価格は暴騰し、一時はヤミ成金といわれた時代があった。
 
昭和21年ころから農村の景気はますます後退し、代わって工業製品は生産に追いつかずに品不足により、多大な出費により農村の景気は消えうせようとした時代でもあった。

 北海道協婦連の設立

 昭和27年11月、札幌市で第1回農協婦人大会が、全道各地より300名の代表者が集まり開催された。農村民主化の旗の下に農家経済の支柱であり、農業労働の最前線に立つ農村婦人の社会的地位向上を図り、さらに次代を背負う農村子弟の教育体制擁立のためにも、農村婦人の組織結成を急ぐべきであるとの声が全道的に高まり、北海道協婦連の結成となった。

 北見地区協婦連絡結成大会

 昭和30年2月、北見地区協婦連結成大会が盛大に開催された。すでに全道的な農村婦人の組織は次々に結成されていた。このような情勢の中で、網走管内農村婦人組織としての結成大会となった。

 遠軽町農業協同組合婦人部の結成

 遠軽町においても農協婦人部の必要性を痛感し、各地区の婦人に呼びかけ婦人部の意義と目的を説いた。その結果、各地区の農村婦人代表者が集まり、結成準備会が組織された。
昭和31年8月20日、遠軽町農協婦人部結成大会が遠軽町公民館で盛大に開催された。
 結成大会では、会の要綱・規約・事業計画を審議し承認を得た。
  
昭和31年は未曾有の冷害凶作のため農家経済は窮迫の一途をたどり、家計を守る主婦たちは大変な苦労をした。婦人部が結成されると次々に活動計画を樹立してそれらの遂行に努力した。早速、食料品中心の購買事業に取り組んだ。鶏卵の取り扱い、家畜飼料の共同購入、婦人の集いなどを開催し、生活改善の研修や編み物教室などの学習を開催した。
 婦人部は、親組合が不審の時期に設立されたこともあって、この状態を少しでも打開すべく婦人部独自の「運動要綱」を策定して、農協再建の一翼を担ってきた。
  
昭和50年代に入る。厳しい農業を取り巻く社会情勢の中で、農協婦人部は農協に終結し、協同意識の高揚を確認しながら、各種の農政活動の取り組みに参加した。地域では米価キャラバン等で米価運動や農畜産物価格政策要求北見地区農民大会の参加など組織の強化に努めた。

 遠軽町農協婦人部創立30周年記念式典

 昭和61年3月1日、遠軽町福祉センターを会場にして盛大に挙行した。式典には関係者200名が出席し、式典終了後引き続き書く婦人部からの芸達者が集い、カラオケや日本舞踊を交えた祝賀会が和やかなうちにも盛大に舞台発表が披露され、農協婦人部創立30周年を心から祝福した。

トマトジュース(遠軽町農協婦人部手作り)  自家野菜消費拡大に手作りトマトジュース発売  平成7年11月に入り、農協婦人部(部長・高良喜美子)は手作りのトマトジュース「トマトDEまんいん」を製造し、町内のAコープ店で発売した。添加物を一切使わず、トマトの新鮮な味を生かした製品で、農協婦人部のメンバー約60名が自宅の菜園で収穫した完熟トマトを持ち寄り、4000本(1リットル入り600円)を製造した。「あっさりしていてトマトそのものの味が楽しめる」と好評である。

 北海道農業試験場畑作研究センター遺伝資源研究室

 昭和23年、遠軽地方の馬産振興に大きな足跡を残した向遠軽の北見種畜牧場が統合により廃止になった。
 
昭和24年、前年廃止になった北見種畜牧場跡の施設に「農業試験場」を誘致する運動が積極的に展開された。
 
昭和24年6月、地域の積極的な誘致運動の結果、北海道農業試験場遠軽試験地が設置された。
 札幌農事改良実験所和寒試験地(除虫菊)、同北見市見地(薄荷)の試験事業を当遠軽試験地に統合された。
 当試験地は13.4ヘクタールの敷地を有し北海道農業試験場遠軽試験地と名称した。
 
昭和25年4月、農林省北海道農業試験場作物部特用作物第二研究室と改称された。
 
昭和26年1月、研究室用地が警察予備隊の駐屯地に転用されることになり、この年は研究事業を一切中止した。
 
昭和27年、特用作物第二研究室は「福路」に庁舎・温室・厩舎・官舎等の新築を行い、除虫菊・ハッカの品種改良と栽培の改善に関する本格的な試験事業を再開した。ハッカの試験研究では、耐病・耐寒・多収・高脳分等を目標にした寒地に適する和種ハッカの品種改良に力を注いだ。 ⇒関連(品種改良された和種ハッカ)

 昭和35年、試験場関係の機構改革により、除虫菊の試験研究は上川農業試験場に吸収合併になった。
 
昭和49年、同特用作物第二研究室は、日常の気象観測の結果を気象庁へ情報提供の場としてつながりを持ち、測定器の一分は東京の気象台に直通になっていた。

 昭和24年、北海道農業試験場遠軽試験地が設置されて以来、薄荷と除虫菊のひんしゅかいりょうと多収穫栽培の改善に関する研究を開始した。試験研究期間の名称変更は試験期間の整備ならびに組織再編の度に名称が変えられてきた。
 除虫菊試験は
昭和35年に廃止となったが、昭和59年までは「ハッカ」の品種改良と多収穫栽培の研究に力を注ぎ、多くの優良品種を育成した。
 
昭和57年には、ハッカの新品種「ほくと」を育成する。「ほくと=薄荷農林11号)は「わせなみ」と「北系J10号」の人工交配による実生より選抜された品種である。連作適正は高く、収油率もきわめて高い。薄荷油の商品性は優れていると評価されている。
農林水産省北海道農業試験場作物第二部特用作物研究室(昭和45年頃)

 昭和60年以降は、ソバ・ひまわりの新品種育成試験が主体となった。
 
平成元年、ソバの新品種「キタワセソバ」。平成3年、同「キタユキ」の新品種を生み出した。
 「キタワセソバ」(ソバ農林1号)は、富良野市で栽培されていた「牡丹ソバ」を母体として、個体選抜と系統選抜を繰り返して育成した。「牡丹ソバ」より10〜13日早生で、大粒、食味、風味も「牡丹ソバ」に優り、短さ棹で倒伏に強い。
 
平成5年には、北海道のソバの全作付面積(6210ha)の6割以上に「キタワセソバ」が栽培されている。
 「キタユキ」(ソバ農林2号)は、在来種「津別」より個体選抜と系統選抜を繰り返して育成した。熟期は「牡丹ソバ」並で、「ソバベト病」に強い。
 
平成6年、ひまわりの新品種「ノースクイーン」を育成した。
「ノースクイーン」(ひまわり農林交1号)は、単交配の寒冷地向き油用一代雑種である。早生種に属し、含油率はやや低いが、子実収量は多収系統である。北海道一円に適するが、栽培にあたっては、菌核病の適正防除に努める。また、発芽期および成熟期には、鳥害防止策を案ずることが望ましい。
⇒関連(農業試験場の名称等)